★生野 聡(教員)
楽しくて終始、うなずきと、共感と、発見と感動のワークショップでした。
異年齢で、一緒に音楽作りをすると言う経験も非常に現代社会に応じた不可欠なプログラムだと思いました。
お二人の講師のファシリエートが、非常に心くすぐる素晴らしいものでした。
たくさんのみなさんに、経験してもらいたい内容です。
音楽づくりを通して、コミュニケーションの育成や、うちに秘めている何かを外に、エクスプレスする衝動を触発されることが改めて判りました。
同じ時間を共有できることのうれしさと、通じ合えたり、理解しようとする感性。さっそく、明日からの授業でやってみます!
ちなみに、我々のグループで生まれた「カンカン」もういちど演奏したいくらい、気に入りました!ありがとうございました!
★宮崎 友紀子(コンサート制作)
仕事でお子さん向けのアウトリーチやワークショップに関わる機会が多く、企画制作のヒントをいただければと思い、今回のワークショップに参加いたしました。
まず、ワークショップ・リーダーの石上則子先生によるアイスブレイク(コミュニケーション・ゲーム)から始まりました。大人も子供も、初めて会う人も、一緒にゲームをする中で自然に笑顔や会話が交わされます。暖かな雰囲気が出来上がってきたところで、中川俊郎先生によるレクチャーが行われました。中川先生によると、音楽を大まかに分類すると「(1)自然の音のまねをした音楽」「(2)自然の音そのものを使用した音楽」「(3)自然の音そのものでもなく、まねもしていない音楽(心の葛藤や自然へのあこがれと拒絶)」の3つに分けることができるとのこと。楽曲例としてCD音源の再生や、中川先生ご自身によるピアノ演奏によって、(1)(2)(3)それぞれの音楽が体系的に解説されてゆく中で、今回のワークショップのタイトルである「ドレミ以外の音も使って遊ぼう、ノイズも面白い!」の全容が明かされてゆきます。
その後休憩を挟み、いよいよ本題の音楽づくりです。5つの班に分かれ、自分たちの身体や持参した音の出るもの(楽器ではない)を使って音楽をつくり、最後に各班の成果を全員の前で発表します。各班それぞれに個性豊かでとても約30分間でつくった音楽とは思えない程興味深い内容でした。
そして最後に、石上先生がコミュニケーション・ゲームの説明用に書いた図からインスパイアされて作曲したという、中川先生による新作の演奏に全員で参加。大作曲家の先生の作品が生まれる瞬間に立ち会うという、貴重な体験をさせていただきました。そして、その作品のタイトルを、今回の参加者の中からお子さん達が皆を代表して決めるというサプライズがあり(イタリア語の辞書からランダムに単語を選んでもらう)、一生懸命に単語を選ぶお子さん達の姿に会場中が微笑で溢れました。和やかな雰囲気の中、楽しい時間を過ごさせていただき、あっという間の2時間半でした。
★徳澤 姫代(日本現代音楽協会維持会友)
私は現音のサポーターの上、講師が長年の友人・石上則子さんなので強烈な後押し、行ってきました。
『楽器以外の、身近にある音が出るもの(例:ペットボトル、フライパンなど)をご持参下さい』
ノイズといっても、私は美しい音のする楽器で出す雑音は好きですが、この注意事項により、かなり耳に痛いのは予想がつきます。ペットボトルは美しくないので買ったことはないし、楽器以外のものを叩く音も嫌いだし、参加者はみな優等生でペットボトルと台所用品でしたが、私が持参したものは、ノイズ全開の巻き尺とりんりん鍵束。
もっと不思議な現代曲を作るという体験が希望ですが、桐朋子どものための音楽教室が中心かしら、リトミックとあまりまとまらないノイズの羅列でした。
講師役の中川俊郎さんに「次は楽器を持って来てもらったらどうか?」と聞かれましたが、ワークショップにはずれているような。
これで三回目だそうですが、解決可能なことがたくさんあるようです。
講師は:
例えば グループで作る場合、リーダーを一人決める。
例えば 五線ではなく打楽器用のような一本の線に単純な図形を作っておいて、表現してもらう。同じ図形(譜)でも違う音楽が生まれる、もう湯浅譲二ジョン・ケージです。
例えば 演奏時間だけでなく使う道具など指定する。自由に作れと言っても、選択肢が多すぎる場合、初心者達は手がかりに困り、まごまごするばかりです。
会場は、調布の桐朋学園、できたばかりの校舎でした。反響板が材木屋のようですが、美しいデザインです。向きは固定されています。
中川さんは自覚していないようですが、その特殊な能力でいろいろ笑わせてくれます。この日一番可笑しかったこと、和服の男性が三味線を持って来ていましたが、そのテケテケ半音階を、転び方まで全く同じに、中川さんがピアノで何の気無しに再現。
ノイズも面白い!ワークショップに参加した!!
★北爪 やよひ(日本現代音楽協会会員)
9月13日昼、私はペットボトルや缶、鍋蓋など比較的小さな音具を詰めた鞄をごろごろと引きながら、初めて行く桐朋学園大の調布キャンパスへ向かった。静かな場所では鞄の中でひそやかに鳴るかわいらしい音が聴こえたかもしれない。仙川キャンパスは若いころから何回も行ったことがあり、近年は昔と変わらぬ古さに驚いたこともあったが、やっと新しくなるらしい。楽しみだ。
調布の駅からだいぶ歩いたお寺の裏あたりにあるモダンな建物の、ワークショップ会場である008教室に入ると、白木の長い板を縦に組み合わせた壁に囲まれた、ほんとに何かをやりたくなるような素敵な空間であった。私はワークショップの中でその木の壁板を、どんな音がするかな?こんこん・・・いつもの癖が出てしまい冷や汗を・・。
さて、このワークショップは現音、現代音楽教育プログラム研究部会主催の音楽づくりワークショップvol.3で、総合プロデューサー坪能克裕さん、コーディネーター金子仁美さん、講師中川俊郎さん、そしてワークショップ・リーダーが石上則子さんという方々が準備してくださった。私は以前何回か、現音主催の音楽づくりのワークショップに参加した記憶があるが、そこからの流れでなく昨年から始まったシリーズなのかな?と現音の会員でありながら怠慢な私は詳しいことがわからない。
それはともかく、坪能さん、金子さんのお話の後、参加者が前に出て、自由に歩くことからワークショップが始まる。おそらく30人以上の人たちが、空間を感じながら、互いにぶつからないように歩く。石上先生の指示で速度や方向を変えたり、誰かが止まったら皆も止まる。人差し指を軽く触ってご挨拶、足先を触れながら止まるなど。なんとなく遠慮気味に?でも楽しかった。身体と気持ちをほぐす効果があるのだろう。
ずいぶん昔、大学の授業の中で、同じように歩いてもらったことがある。そのときはなんだか雑然としていて新宿の雑踏みたい!と言った覚えがある。でも、新宿を歩く殆んどの人は目的を持って歩いている。教室の中を、どうして歩かなきゃいけないの?!というように面白くなさそうに歩く子もいたりすれば、とても美しさは感じられなかっただろうなと今になって思う。
人の群れの中に自分を置く感覚、互いにぶつかることもなく自分を突出させない・・そこで、日本人のそういうところが好きだというドイツの女性映画監督のことや、渋谷のスクランブル交差点が、今や観光名所になっている、なんていう話を思い出した。
歩くといえば、私の参加している山海塾・岩下徹さんの即興ダンスでも、よく歩く。
いろんな歩き方をして、止まり方もストップモーション、一応ダンスであるから人との関わり方も形として面白いものになる。ここでは頭でなく、まず身体で感じることが大切。
音(楽)は使わないで動くので、より音楽の本質に迫ることができる。
ここで、私のワークショップの場合の始まり方を簡単に思い出してみることに・・・無理でなければ円になって立ち、まず呼吸について・・・細く長く息を吐いてみる。吸うときは鼻から吐くときは口から・・・そうして重心が足の上に乗り身体全体が下がり丹田を感じる。細く長く吐く息は声を細く長く伸ばすことにつながり、ppのきれいな声の重なりを聴くことができ、空間を感じることもできる。また、重心を左右の足の裏に交互に乗せるときに腕も連動、次第に柔らかな「なんばあるき」へと移っていく。そしてなんばで歩きながら、出会った人に挨拶を!これを色々工夫するとかなり楽しい音や動きの空間になるはず。
桐朋の008教室を歩く人たちの中に私もいたのだが、それをこちらから見ている自分も感じることができる。移動する人たちの中から小さないろいろな声や音が聞こえてくる・・過剰にならず、密になったり疎になったり・・膨らんだりしぼんだり、身体のあり方も感じながら・・・きっと素敵な空間になるだろうな、と想像してしまう。
さて、歩いた後は円になって立って、身体を叩いたり、の音探し、顔の部分・・唇、声を工夫していろいろな音を出す(昔、イギリスの作曲家で自分の顔、口の部分の様々な音や声だけで曲を作りCDにした人のワークショップに参加したことがあった。歯の治療をしたら前に出た音が出なくなったそうだ)。そして持参した音具で音を出す。缶やメジャー、台所のもの・・・などを一人ひとりや数人のグループでやってみる。実は私は今はプログラムを見ているが、当日は全然読まなかった!きっともっと実感をもって参加できただろうに。
次に、中川さんのお話とピアノ演奏。ここでの私の感想は、「さすが現音!なるほど現音!・・やっぱり現音!」というものであった。西洋音楽史の中で作曲家は自然の音を作品の中に取り入れてもいたという例を聞かせてくださった。ダカンの《かっこう》、ラモーの《めん鶏》などで中川さんの軽やかなピアノの響きに耳を澄まし、CDでベートーベンの《田園》やマーラーの《巨人》といったオーケストラの曲のごくごく一部分でも聴くと、しみじみほっとして、心に沁みた感じがした。そして自分の生きてきた彼方に思いをはせ、まぎれもなく、そういった西洋音楽の歴史の上に私は育ってきて、ここにいる。と感慨深く思ったりした。そして現代の作曲家の取り組み方を紹介。メシアン、ラッヘンマン、ケージ・・・。
西洋音楽の楽器は、無駄な音を省き合理的にきれいな音を出すことが目的となり発展してきた。現代の作曲家はそれでは物足りなく感じて、楽器から通常の奏法では使わない音を追求した。まあ歴史を逆行したともいえるが、それもノイズと呼べるのだろう。邦楽器ではもともとノイズが存在価値を持っていて現在も変わっていないのは周知の通り。勿論新しい奏法は試みられている。
私は今までずいぶんたくさんのワークショップに参加してきたが、このあたりのお話に時間をかけるものはなかった。だから前の感想になるわけだ。このお話は、知識を得るためのものであり、皆で生きた音楽を作ろうというときには、本当はもっと違った方向から考えることもできるのではないかと思うのだ。時間の問題もあって難しいことかもしれないが・・ただ現代の作曲の仕方についてもまだまだ沢山の例が必要だと思うし、今プログラムの文章を読んで大分隙間を補うことはできているが、当日は、つぎの実践の時間に自然に移れるのかどうかがよくわからなかった。
五線紙の間に図形楽譜という文字があっても、その例を見せていただけないのは何故?図形というのは、五線譜と比べれば人によって描き方、感じ方が違い、曖昧な部分が多いから外したのか・・・私は曖昧さがよいのだと思う。人それぞれがお互いに感じあいながら、徐々に出来上がっていく音の空間。また民族音楽や民衆が創り出す楽譜のない音楽のいろいろ・・・。
ここでまた話がそれるかも知れないが、ずいぶん昔、何気なくつけたTVから何とも素敵な「ビバルディの四季」が聞こえてきた。演奏する人たちの様子は重心がちゃんと下がり、上体が自由で楽しげ、揃えようという意識は感じられないが勿論めちゃくちゃではない。イ・ムジチの四季があまり好きではなかった私は、えーっ、こんな風に演奏する人たちがいるんだ!と惹きつけられた。それは、森悠子さん率いる、長岡京室内アンサンブルであった。森さんは演奏メンバーの方々に、森の中で、自然を感じてくるようにと言ったそうだ。鳥の声もみんないっせいに揃って鳴くわけではなく、風にそよぐ木々の枝や葉も同じように揺れるわけではないでしょ?と。様々な色合いが重なる深みある緑を感じることができたのは、そのせいだったのかと、子供時代から風に揺れる樹や草からいろいろな感覚を得ることが多かった私は納得して、本当に嬉しかったものだ。後には森さんが、呼吸、息遣い、間を大切に考えておられるという記事も読んだ。こういう感覚は勿論、楽譜のない音楽でも生かされるべきものだと思う。
ドレミを使わないで音楽を作ろうという場合、例えば、文字を持たない時代のアボリジニの社会には、動物の立てる音や自然の音を本物のように真似して、作り上げる自然のコンサートのようなものがあったと、マリー・シェーファーの「サウンド・エデュケーション」の中で紹介されているが、まず自分の口などでどんな音が出せるか?から始まったあと、自然や生活の中で聞こえる音をオノマトペ的に真似してみるなどと発展させる。当然それはカタカナで簡単に表せるものではない。
などなど、実際にグループで作品を創り上げるまでは、いろいろな過程が必要ではないかと考えていた。
いよいよグループ別の音楽つくり。全体が5つのグループに分かれて個室で相談の時間。私のグループには小学生の男の子が二人いた。そこで持参した小さな缶やペットボトルなどを鞄から出して床に置いた。すると二人は目をくるくるさせて音を出してみている。それがうれしくて私は満足してしまった感がある。なんて可愛いんだろう・・。
これらのペットボトルは、中にビーズや細かくした発泡スティロールが入っているマラカス仕様のものや、きれいなリボンでいくつかを結びあわせたもの、ほかに缶の中に王冠やコルクがはいっているもの、赤ちゃん用の優しい音がする音具の中身。これらは、障がいのある方たちの施設に遊びに行っていた時代の名残り。私のペットボトルの使い方にはもっとあって、ピッチの違うものを6、7個脇に抱え、口の部分をゴムのマレットで優しく叩いて即興音楽を作る、などなど。マイクで音を拾ってもらい、床に置いたいくつかのスピーカーからptpt・・・と優しい音が聞こえる形で、ダンスの音を担当したことが、冗談のようにPB演奏家などと名乗ったりする、そして即興をするきっかけとなった。
今回子供が参加すると聞いて、実は沢山の子供を想定してしまい、いろいろあるノイズを出す音具の中に混ざってこれらも使ってもらえるかな?と持参したものだった。初めから勝手にワークショップのイメージを固定してしまっていた。
前にも書いたが、当日あの場所で私はプログラムを全然読んでいなかった。特に、「作曲家とつくろう!ノイズを使った新しい音楽!」のページ。ああ、私は作曲家として音楽をつくる助けにならなければいけなかったのか!
グループごとの発表が始まると、歩きながら伸びる声を重ねていたり、動きも取り入れられていたり、人と人との呼応、音具に役割を持たせるゲーム的な構成、声の役割が大きく、楽曲として音だけ聴いても面白い作品。うーん、確かに作曲家の力が働いているな。
しかし、参加者の中には普段色々体験していて音楽づくりのワークショップにかかわっていらっしゃる先生方がたくさん含まれているに違いない。個々には小さなアクシデントがあったりほほえましい部分もあったけれど、みなさん大したものです、拍手。あの日の時間だけで、出来上がった成果とは思えないくらい充実したものだった。
準備の時間の部屋で、一人の男の子が、「小さい音(の音楽)にする」といって、色々試している。リボンを持ちペットボトルを床に転がしながら音を出し歩いてみたり・・・赤ちゃんの音具を静かに鳴らしているもう一人の子。持ってきた私の知らないタイマーのようなものをチン?と鳴らして皆がストップ。私たちの小さい音グループは単純な要素だけでできあがっていた。持ち時間はたった2分!?普段の私なら、たぶんあの二人の子供たちをもう少し生かすことを考えただろうし、イメージを共有して・・もっともっと柔軟性を発揮できたと思う。家に戻ってから、色々な案が浮かんでは消え・・小さな声のオノマトペを加えたり、空間を広く使ってお散歩してみたり。はじめも終わりもない音楽・・。
私はなるべく一つの方向に誘導せずに、任せてみて出て来たものを大切にするような感じで参加していることが多く、即興で組んだユニットでも、あまり構成を細かく決めてしまうと、その時にしか現れえないものが自然に出てくることを妨げてしまうところがあり難しさを感じていた。
そして、私自身の作品では、間、空間、を感じることで音楽が進んでいくことが、一つのテーマであり、もうひとつ、声と動きというものについても追求し続けていて、なんとか新しいものを創り出したいと模索している。その実現が、ワークショップの中のたった5分の中に凝縮されたとしても、それができればうれしい。また機会があったらぜひ参加したい。
また、グループでの音楽の作り方、アプローチの仕方も、ノイズを使うことを目的とするのではなく、例えば絵や写真から、言葉や詩からイメージを得てパフォーマンスを創っていくなど、無限の可能性があるだろう。その中には声も動きもノイズも無理なく自然な形で含まれているに違いない。
日常の中で、ふいに聞こえる音に惹きつけられたり、初めて音を出した時の、あっ面白い!という感覚、すべてはそこから始まる。
プログラムをはじめからよく読んでみると、この現代音楽教育プログラム研究部会の設立以前に、1991年、現音創立60周年記念事業〈東京現代音楽祭〉での「子どもの音楽・世界大会=童楽1」に始まり・・と実績について書かれている。
この〈童楽〉のコンサートで私の作品、「音は移るよ 波うつよ 我らは地球のうんてん手」が初演された。今から24年も前のこと。生まれていらっしゃらない方々も多く今回のワークショップに参加されていたと思う。
私はそんな昔から、いやそれ以前、作品を発表し始めた時から、音の移動、間と空間、動き、足の裏=身体の立ち方、・・そしてドレミ以外も音楽だ、という意識をもって考え続けているのだなぁと改めて思いあたった次第。脱線体験記で失礼しました。