アンデパンダン出品者からのメッセージ
アンデパンダン出品者からのメッセージを50音順で紹介します。
◎ まずは内本喜夫さんからのメッセージです。
チェロ協奏曲(2017年版-1) (第1夜)
「TSAR BOMBA」ツァーリ・ボンバは 内本喜夫唯一の代表作品。私は作曲家になる遥か以前の極めて幼少期からこの作品を創造していた。この作品は全人類究極の最終知的進化形。学術、美術、音楽、他、人類の知的活動の全分野史上最強の作品。私はこの「TSAR BOMBA」ツァーリ・ボンバと共に生まれ育ち、人生を生きてきた私の命であり、「TSAR BOMBA」ツァーリ・ボンバ以外には興味は無い。他の作品についてはどうでも良い。私が全身全霊をかけて取り組んでいるのは、「TSAR BOMBA」ツァーリ・ボンバだけである。他の作品についてなどは全く興味が無い。「TSAR BOMBA」ツァーリ・ボンバ一作品だけで他には何もいらない。「TSAR BOMBA」ツァーリ・ボンバ一作品のみが私の人生を生きていく唯一の希望である。
Major Works
TSAR BOMBA
3F ( Fission-Fusion-Fission ) hydrogen bomb
( Staged radiation implosion bomb )
Nuclear weapon yield 150 megatons
内本喜夫著
TSAR BOMBA ツァーリ・ボンバ改訂第六版
ISBN978-4-86645-002-5 C3042
JASRAC日本音楽著作権協会(出)許諾第1608931-601号
より抜粋
◎ 次は岡坂慶紀さんからのメッセージです。
プリズム-3人のクラリネット奏者のために (第2夜)
実は4~5年前、同じ編成で曲を書きました。
クラリネットはグリッサンドが可能なので、それを一つの効果として・・・と云うのが狙い目でしたが、一応書き終えて奏者に相談したところ、いろいろ制約が多く、その上、大した効果がないことが解りました。
結局破棄せざるを得ませんでした。
弦楽器は自由にグリッサンド可能ですし、その効果も充分ですが、クラリネットはそうは行かない・・・と、身を持って感じました。
◎ 次は倉内直子さんからのメッセージです。
「変異の相互作用」-アルトフルートとバスクラリネットのための (第2夜)
曲は、変容する7つの部分より成ります。
各低音楽器は拍節感を持ち、そのアクセントのズレや、カノン、旋律の和音的垂直装飾、ユニゾン等の手法や形態を取っています。
現代社会の『時に疾走し、時に静まり拡大する時間感覚』の表現を試みました。
何よりも、(アルト)フルートの間部令子さんと、(バス)クラリネットの菊地秀夫さんの御二人に依るDUOという視覚的、映像イメージが大きく存在しました。
御二人それぞれの高い演奏技術と、曲の為に最善の御提案、御提言を頂ける御人柄に寄せる絶対的な信頼感、安心感が、作曲時の心の拠り所、基盤となりました。
御二人に心より感謝致します。
◎ 次はくりもとようこさんからのメッセージです。
ウェーベルンの旋律によるパラフレーズ —青春の思い出に— (第1夜)
学生の頃から自作自演をしてきた。自分の曲でもできるだけ客観的に弾きたいと思い、名前の表記を、作曲の場合平仮名で、演奏の場合は漢字で書いてきた。
決して、自作自演が最高の方法でないと自覚しながらも、演奏という楽しさは捨てがたく、ピアノだけでなく、歌(声)やパフォーマンスもやってきた。2014年にCDを作る機会をいただいた時には『くりもとようこ自作自演集』としてしまった。今回も、主催者に禁止されていないことを良いことに、素晴らしい演奏の方々に混じって出演させていただくことをお許しいただきたい。
曲は7分程のピアノ曲で、2016年に作曲、9月に名古屋で初演した。初演時のプログラムには次のようにある。
「20世紀無調音楽の巨星ウェーベルン(1883〜1945)の非常に初期の作品に『弦楽四重奏曲のための緩徐楽章』がある。まだ調性があり、作品番号も付いていない。ヴァイオリンの最低音ト音から始まるハ短調のメロディは、三オクターブ近くグイグイ上行し、変ホ長調に収まる。その甘美で情熱的な音楽は、泣きたい時に聴くにはもってこいだった。若かった頃の話。
あの頃と私は何が変わったのか? 好きだった野坂昭如もデヴィッド・ボウイも死んでしまった。守ろうとしたものは何だったのか?
曲は『緩徐楽章』の旋律による46音が二音ずつ提示され、その間に短い楽句が挿入される。(決して、後のウェーベルンを模したものではない。) パラフレーズというよりは、23のバラバラのフレーズのパッチワークの様なものである。」
ピアノの、右のペダルを踏んだ総ての弦に共鳴する豊潤な響きではなく、単音の響きに耳を澄まそう。その音をソステヌート・ペダルで拾って、その上に大好きな高音をキラキラとばらまこう。年をとり、確実に若さは無くなったが、成熟には程遠く、再び『若気の至り』に憧れる。
◎ 次は高原宏文さんからのメッセージです。
コミュニオン Ⅸ クラリネットとチェロのための (第2夜)
コミュニオンシリーズは、いずれも二人の奏者による二重奏曲の形態を採っており、今回の作品は其れの九作目となる。
この作品では、我が国の伝統芸能である「文楽」の中で、義太夫の語り手と、太棹の三味線の二人の演者によって演じられる緊迫した遣り取りに触発され、其れの遣り取りをクラリネットとチェロの二人の奏者に託して曲を構成することを試みた。
高原宏文 1934年鳥取県生まれ
国立音楽大学作曲科卒業。同専攻科修了。
現在、日本現代音楽協会会員、国立音楽大学名誉教授。
COMMUNIONⅠ〜Ⅸ
Ⅰ(Cb. Perc.) Ⅱ(2Mba.) Ⅲ(2Fl.) Ⅳ(Sop. Sho) Ⅴ(Vn. Vc.) Ⅵ(Hichi. Sho) Ⅶ(Vn. Pf.) Ⅷ(2Vn.) Ⅸ(Cl. Vc.)
◎ 次は露木正登さんからのメッセージです。
デュオ・コンチェルタンテⅡ〜バセットホルンとピアノのための (第1夜)
バセットホルンのための作品シリーズ(連作)開始宣言
友人に、今度のアンデパンダン展のチラシを見せたときの反応
「バセットホルンってどんなホルンなの?」
ちっ、違う!バセットホルンは金管のホルンではない!クラリネット属の楽器である!F管のテナー音域のクラリネットなのだ!
バセットホルンという楽器を知らない人は意外と多い。しかし、モーツァルトは一般的に大変人気のある作曲家であり、「レクイエムニ短調K.626」を聴いたことのない人は、クラシック音楽ファン(とくにモーツァルト・ファン)ならばまずいない、と断言してもいいだろう。「グラン・パルティータK.361」を聴いたことがない人もまずいないはずである。モーツァルトのこれらの名曲をよく知っている人達でも、バセットホルンという楽器がすぐに思い浮かばないほど、この楽器の存在感が薄いのが現状である。もちろん、吹奏楽やクラリネット・アンサンブルをやっている人達はその限りではないが。
モーツァルト以降、この楽器が使われる作品はあるか考えてみると、メンデルスゾーンのOp.113とOp.114が思いつく程度で、他にはこれといった作品が見当たらない。音色的にはロマン派の作曲家にピッタリだが、残念ながらシューマンもブラームスも作品を書いていない。かなり長い間、バセットホルンという楽器はほとんど忘れ去られていたようである。
しかし、20世紀になると再びこの楽器が使われ始める。たとえば、B.A.ツィンマーマンの管弦楽作品「フォトプトシス」(1968)、クルタークの「人生行路Op.32」(1992)、リゲティのハンブルク協奏曲(2001/2002)などである。シュトックハウゼンの連作歌劇「光」(1977/2003)では、バセットホルンに重要な役割が与えられている。ヨーロッパではチェンバロをはじめ、ナチュラルホルンやバセットホルンなど古い時代の楽器のために新たなレパートリーを創造することが行われているが、さて日本ではどうであろうか?特殊奏法や作曲技法の輸入にはとても熱心だが、音楽史上、忘れられた楽器のために新たな音楽を創造することには消極的であると言っていい。
さて私は2012年から、レパートリーが少ない楽器のために曲を書くシリーズ(連作)を開始した。これまでにホルンやバロック・ヴァイオリンといった楽器のために曲を書いてきたが、今回はバセットホルンである。鈴木生子さんという素晴らしい演奏家と出会わなかったら、たぶん思いつかなかったシリーズではある
◎ 次は北條直彦さんからのメッセージです。
String Trio 「記憶の風景より」〜弦楽三重奏のための〜 (第1夜)
この曲は遥か彼方の様々な記憶の断片からの音による呼び醒ましであり、それらへの照射を意図したものである。幾つもの散逸した断片を一本の糸で繋ぎ、その先にある隠れた意味性を探ろうとした。いわば、これは作者の心象風景とその背景の音による現前化の試みと言い換え得よう。記憶の引き出し手として、冒頭のヴァイオリンの動機C、Es, Desとそれに続く重音を伴ったE,G,Gis,H…が狂言回しとして重要な役割を持つよう設定されている。そして、そこから一つの物語が始まる。
具体的な曲構成は大きく分けて六つの部分よりなる。以下にその見取り図を示しておく。
a1 ヴァイオリンの動機(狂言回し的な)
a2 奏者全員によるピチカート音群
b1 狭い音程によるグリッサンドを中心とした部分
c1 ヴァイオリンの半音下降音型とチェロの上行音型の組み合わせによ
る
c2 aとcとの組み合わせ
a3 aが展開、発展し新たな線形も登場
a4 a2に新たな旋律線が組み合わされ加わる。
b2 グリッサンド音型に新たなリズム音型が加わる
aの変化を伴った再現
bの変化を伴った再現
- チェロに始まるポリフォニックな部分(チェロのテーマは概出の線形を音列化して導きだした)
- 展開された再現部、及び終結部
a5 冒頭のヴァイオリン動機を基としたカデンツア
a6 a2の再現と発展
b3 b1の再現と発展
d a2のピチカート音群中のチェロパーとより引き出されたオステイナート上に概出の要素が現れる
e 結尾 曲の最後のグリッサンドは「記憶の風景」がはかない夢として消える事を表し、日常性への回帰の信号ともなる
◎ 次は増本伎共子さんからのメッセージです。
引き歌いによる箏曲「西脇順三郎から“四つの詩”」 (第2夜)
本来、「箏曲」は、歌を歌いながら箏を弾く「組唄」を期限としており、「六段」のような「独奏曲」は「段もの」といわれ、少数派とされていた。しかし私は、その古来の箏歌が何となく肌に合わず、ずっと避けて通っていた。ところが一昨年、深海さんから「歌入りの箏の曲を」という委嘱があり、少々たじろいだが、彼女のCDをうかがい、その見事な歌唱の技術に圧倒され、禁を破って「現代風 歌入りの箏曲」を書いた次第である。さいわい初演では箏曲関係者からも凡ね好評であったので、今後もこうした「歌入り箏曲作品」が、現代の作曲家諸氏(姉)によって次々と書かれることを期待している。
桐朋学園大学音楽学部作曲理論学科卒業
箏のための作品としては「序奏・うた・終曲」(マザーアース刊) 「越天楽今様による合奏曲」「とりお」「こより—二十五絃箏とギターによる二重奏曲—」などがある。
◎ 次はロクリアン正岡さんからのメッセージです。
「死生共存」—ソプラノ、テノール、ピアノによる (第1夜)
宇宙脳が作曲した今度の出し物「死生共存」について
現実の音楽や音楽史に視界を限られれば、数多くの豪華な楽曲や天才的な作曲家や演奏家、そしてその他を含めた全体的音楽文化・文明の豊穣さに圧倒される思いだ。だが一方、音楽の潜在能力を考えると未現出の楽曲やそれに始まる演奏や楽器や音響手段の多様性は私のような者に想像できる範囲でも既出のそれをはるかに超え、実際は更にその外に大きく広がっているに違いない。地球上の自然からして動植物の多様性は驚くべきものがあるが、各自然物にとっての宇宙の無尽蔵の潜在力からみれば無限小の筈だ。むしろそれほど高い潜在力があってこそいろいろな個性達の現出と相成り得たのだ。「もういいとこ出尽くしちゃっている」「我々は既存の要素を新規に組み合わせることぐらいしか」といった現代作曲家の発言は謙虚なようでいて実は傲慢なのだ。
一般的に人間は「現れ」信仰者だ。彼らは眼にも見え手で触れうる石ころほど確実な存在はない、とする。スポーツ選手が勝ちに、女性が若さに等々、一般に結果に拘るのも同根で、“現象=存在”の思いからだろう。だから鏡の手前の自分自身よりも鏡や他者の目に映った自分の方を大事にする。でなければ「カッコイイ」とか「輝く」という言葉は冷やかしにしかならない筈だ。原因とか努力とか幸運とかに拘るのも結果(=現象=存在)と関係づけてのことだ。だから、努力は偽りに変えられもする。女性の美容整形やロシアの国ぐるみのドーピング…。こと芸術、わけても音楽に至ってはもともと鏡の中の存在のようなところがあって、すべてがすべて絵空事=デッチアゲとされもする。
ところが現代は超が付くほどの情報時代だ。情報の箱である鏡はいやがうえにも大事にされるが、どっこい鏡の外の目や頭や心等、要するに意識が無ければ鏡は有り得ず、脳が無ければ意識は有り得ない。
そこでだが、普通、その脳は個々人の所有物、あるいは個人自身とすら思われている。現代においては、個人を超えた情報集積回路のようなものが社会に役立つ優秀な人材として求められつつあるようだ。が、それらはいずれもエゴイスティックで、後者も社会のエゴイズムの産物だ。
話を冒頭からのつながりに戻すが、私LMは我が脳を自分自身から解放し、持てる宇宙的思惟力-それは宇宙の根拠から来ている-を存分に発揮させたい。人々がまだ目にしたこともない未来からの恐竜「ゲルニカ」の登場。芸術的行為は、とりわけ作曲行為はそれを強力に促してくれる。それは悪行か?いや!この現代文明を破壊しようとする「シン・ゴジラ」があれだけもてるところを見ると…以下、LMホームページの詳述へどうぞ。