アンデパンダン出品者からのメッセージ
アンデパンダン出品者からのメッセージを50音順で紹介します。
◎ まずは平良伊津美さんからのメッセージです。
Affectus III〜アルトフルートとピアノのための〜 (第1夜)
A ectus は、ラテン語で「感情」という意味です。 今までに「A ectus 」「A ectusII」を標準のフルー トとピアノで書きました。
今回の「A ectus III」は、フルート奏者、大野 和子氏の依頼で、アルトフルートとピアノの編成にしました。アルトフルートの音色は、標準のフルートより、 低く、暗い印象があり、実際に、暗い楽曲が多いで す。しかし、従来の暗い曲にならないようにしてほしい、と大野氏の要望があり、恰好いい感じの作品にしました。
この作品を作曲するにあたって、色々なアドバイス をしていただいた、大野氏に深く感謝申し上げます。
◎ 次は坪能克裕さんからのメッセージです。
「みんなでつくるコンチェルト」について (第2夜) 坪能克裕
「子どものための音楽」がたくさんつくられています。子どもに向けた大人が書いた作品がほとんどです。
音楽教育プログラムのジャンルでも、子どものため、子どもがつくった、という音楽が多数あります。しかしその多くは大人のつくったワクに子どもが参加して、大人が手助けして完成させた音楽が多いものです。
今回アンデパンダン展で発表させていただく「みんなでつくるコンチェルト」は、子どもが考え、つくり、表現(演奏)するところから始まり、音楽の教師や演奏家・作曲家がサポートに参加する音楽になっています。
作曲家はハープの調弦に合わせた7つの音を暫定的に提示します。それを基に子どもたちが、歌にしたり、響き合わせたりして、仲間とアンサンブルして行きます。大人はファシリテートしながら子どもに呼応して拡がっていく音楽をサポートしていきます。それらは学習というより、あそびながらコミュニケーションを築き、智恵を出し合ってオリジナルな音楽を生むということです。
突然、音楽が生まれるわけではありません。子どもは情報量が少なかったり、音楽をつくる仕組みが分からなかったりします。そこで音楽づくりに参加する人びととコミュニケーション・ゲームなどを通して仲良くなり、そこから音楽をつくる仕組などを、あそびながら共有していきます。あれはダメ、それは違う、と何かを否定するのではなく、失敗も生かせる手だてをみんなで考えながら、全てが生かせるよう、そして楽しいひろばになるようにつくっていきます。
確かにコンセプトは作曲家が出しましたが、参加者全員の作品です。それは著作権では難しい問題も含んでいます。そのため本番以外、公開されることが少ないのです。故になかなか素晴らしい結晶が多くの人びとと共有出来ないでいます。評価される事も少ないのです。本作品も今回のステージが唯一となる可能性があります。貴重な瞬間です。視覚障害の人びとも子どもと一緒につくります。みなさま、再現不可能な決定的瞬間を是非お楽しみください。 以上
◎ 次は露木正登さんからのメッセージです。
イン・メモリアム(墓碑銘)について (第2夜) 露木正登
《イン・メモリアム~ヴァイオリン、バセットホルンとピアノのための》という3楽章構成の三重奏曲に、《墓碑銘I・II・III》というハープを中心とした連作小品集を組み込むかたちで演奏する。表記のタイトルはそのような上演方法をとった場合のものである。いうまでもなく、それぞれの作品は個別に上演することができる。
来年3月1日に開催される現代の音楽展2019「現代の音楽と対位法」で、私は分不相応にも制作担当などを引き受けるハメになったが、私にとって「対位法とはなにか」を考えてみたのがこの曲である。いわゆる、音楽大学で学ぶ狭義の「対位法」ではなく「別々に存在するものを関係づける方法」という意味での拡大解釈された「対位法」がテーマである。二つの別々の作品を一緒に演奏することによる関係性というのも私の関心事であった。
そもそも、なぜ私ごときが対位法(対位法音楽)に興味をもったのか、そのきっかけは、2017年9月22日に日本福音ルーテル教会で行われた「tourbillon 中世キプロス島音楽の煌めき~イソリズム・モテット:中世最後期の精巧なる対位法」というコンサートを聴いて衝撃を受け、そこで演奏された音楽に深く感銘したからに他ならない。演奏された曲は作曲者不詳のキプロス写本の中から選ばれたものだが、作曲者不詳とはいえ精巧な対位法的技術を凝らした音楽的クオリティの非常に高いものであった。このコンサートを聴いたときの感動を、私も作品の中で表現したいと考えて「似非」対位法音楽を構想してみたが試みは失敗に終わったようだ。音楽大学で学ぶ「狭義」の対位法ができない人間には、いくら逆立ちしても対位法的思考の音楽など書くことはできない……という当然の結末、自らの作曲技術の不足を実証するものとなった。
最後に、この曲を書くにあたって熱心に聴いた曲、影響を受けた曲をここに列挙しておこうと思う。ストラヴィンスキーの「ディラン・トーマス追悼のために」「古いイギリスの詩によるカンタータ」「マックス公追悼のための墓碑銘」。異なる持続の同時進行という関心からブリテンの「戦争レクイエム」、ブーレーズの「マデルナ追悼の儀式」。具体的な作品名は書かないが、ジョスカン・デ・プレ、イザーク、デュファイ、オケゲム、ラ・リューなどルネサンス時代の数々の宗教合唱曲あるいは世俗曲。いうまでもなくJ.S.バッハの音楽、とくに「マタイ受難曲」!
◎ 次は中村典子さんからのメッセージです。
眞聲天如 vox verum sicut caelum (第2夜)
バルトーク・ベーラとコダーイ・ゾルターンの音集積からの創造は、日本においては日本民謡大観の音集積と間宮芳生の音楽創造をはじめとする膨大な合唱楽曲家達の仕事にあたる。その間宮の合唱造形にして捉えきれないものが、存在としてのマリアの歌である。311 直前、民謡家がその時間生理から共演可能と伝えた《鈴鹿馬子唄の交響譜》にしても、原曲馬子唄は戦後20年の農村部育ちの私にして、交差の時空が失われていた。これら自国音曲拒絶の近代音楽教育の始まりよりの非交差の相を確かめるべ く各地域の馬子唄の記憶状況を勤務先音楽学生群に調査した際、 在学生最多の近畿三都四都は、交通網発達で馬子唄存在自体ないこと以上に、学生の馬子唄との交差もまた想像通り、一切根絶の相に あった。この光の闇の残響で聲達の棺を包み、闇の光を 2014 年ボローニャサッソモレッリ教会〔古楽の神秘主義と電子音楽のスピリチュアリティ〕におさめ、図形譜五線譜往還のファゴットによる《眞聲》 をその聲達の記憶のテープで包んだ《眞聲花如》が、 やがて不在のファゴットのテープと二重奏に謳い、その一部を含むファゴットコンチェルト《暁環》が生ま れた。ほどなく《眞聲花如天景一如》がふたりを聲達の記憶に包んで大阪能楽会館の歴史掉尾を飾る。本日、これら聲達の記憶へ《眞聲天如》が直面(ひためん) に答舞する。
眞聲の道程
2013 《眞聲 vox verum》 fg
2013 《如何美輝暁星 Wie schön leuchtet der Morgenstern》 chamber orch
2014 《花如 quasi flos》 electro
2015 《眞聲天如 vox verum quasi caelum》 fg,electro
2015 《眞聲花如 vox verum quasi flos》 Noh-dance,fg,electro
2016 《眞聲水如 vox verum quasi aqua》 piano, chamber orch
2017 《暁馨 suivitatis aurorae》 electro
2017 《暁環 annulus aurorae》 fg, orch
2017 《眞聲花如 天景一如 vox verum quasi deo》 Noh-dance,fg2, electro,Noh-stage
2018 《眞聲天如 vox verum sicut caelum》 fg2
◎ 次は桃井千津子さんからのメッセージです。
EVERY DOG HAS HIS DAY (第1夜)
本作品は去年の続きとなります。
寓話や格言にちなんだ話から題がつけられて、今回は「犬」です。鳥も回想として最初に現れます。全体のイメージは「自然から都会」「空想から現実」でしょうか。ミラクル・エッシャーの「メタモルフォーゼ」で、鳥の絵が徐々に変化していくように、曲の最後に向かって音の数が増え、休符もなくなっていきます。
中間で違う要素(作品のシリーズで必ず現れる中間部)が入ります。今回は打楽器で、旋律を正確に再現しないことから、印象が変わっています。また「1-2-3」が「3-2-1」というように、曲の真ん中から逆行し、「♫ ♩ ♫ ♩ ♩」のリズムが反復されます。対称も大きなテーマなので、後半に向かう合図を聴いていただけると嬉しいです。
譜面には鳥や犬、さえずりや羽ばたき、山やビルなどが見られ、それらは楽曲のイメージと奏法の記号を兼ねています。活用法は演奏者の自由で、打楽器奏者ならではの個性豊かなパフォーマンスを望んでいます。
見慣れた記号にも他の意味があり、とくに後半のアクセント記号は前半リズムの再現となります。
使用する楽器は2種の指定以外自由です。手作りの打楽器やデジタル系、大きさなど、その時に確保できるもので大丈夫です。
当日どうなるか、楽しんで頂ければ幸いです。
読んでくださり、ありがとうございました。
◎ 次はロクリアン正岡さんからのメッセージです。
創造に生きるとは:邦楽音痴だからこそ出来る人間からの脱却
2018年秋のアンデパンダン展第2夜の出品曲
(改題)サックストリオ「バイク少年三人組ライブ」の作曲の黒幕的心境が語る
会員:ロクリアン正岡
プログラム冊子の方ではサックス定番作品の数々やそのひっくり返しのクセナキスのXASを引き合いに出したりしたが、私がそれへの対抗意識に縛られているのではないことは以下で自然に分かっていただけると思う。
最近の世の中、個人情報保護法の整備も進み、人同士の言葉遣いも丁寧化するなど人間様ムードが一杯だ。だが、それはあくまでも“命ある「物」”、あるいは人権を与えられた者としての限りで大切にされているに過ぎなくて、芸術家各位の力強い筈の自由意識も、そういう前提で却ってスポイルされているのではないか?
私には現代音楽の被拘束性が目に付いてならない。日本の現代音楽も、多くは西洋からの影響化にあるといわれるが、そもそもリゲティやクセナキス他の楽曲がなぜあれほどにデザイン化しているのか?バッハのパッサカリアは芸術だがリゲティの「ハンガリー風パッサカリア」はデザインであり芸術の名に値しない。「音楽は優雅であればよく芸術である必要はない」と宣う松村禎三が欧米の現代音楽を批判をする時、私の敬愛する師の言は空ろに聞こえたものだ。
まずは創造の自由を奪うモヤモヤを思い切って取っ払おうではないか?そのためには、例えばだが、L.正岡を本人が独占してはならない。脳も意識も大切だ。だが、それは私の所有物なのか?とんでもない!脳や意識が先で、私なんてそれに寄生しているものに過ぎない。脳を私から解放すれば、現代の芸術からも、それどころか芸術の流れからも自由になれる。それは、この世に生きる人間が現代から、また人類史から自由になることは出来ないことを思えば、実に対照性の著しい、飛んでもない事と言わねばならない。
近現代絵画は、音楽を追うかのように写実から抽象(非対象)絵画への道を進んだ。だが、私の今回の作品はきわめて写実的なのだ。たとえばリズムがデコボコしていて規則性が感じられない。どうやら今回、作曲時の脳は知らず知らずのうちに心身活動そのものの時間的変化を音楽に移していたようなのだ。心臓の鼓動や歩行運動は確かに等間隔的だがそれはむしろ例外であり、普段の瞬きや手の動きや話し方や思考や感情の変化など、拍子以前、速度以前のものだ。歴史上なぜこれほど身近な心身活動というやつをモデルにした楽曲がなかったのか、私には分からない。以上、おそらく邦楽音痴的考え方なのだろうけれども。