●第4回「予定違い」
7月1日(火)、今日で早くもイタリア滞在2週間を過ごしている。気の遠くなるような6週間と思っていたが毎日単調な繰り返しをしていると案外時の経過が早く感じられる。一日のスケジュールはまず7時過ぎに起床。時間がまちまちなのは携帯の電源が今もって充分できないのでアラームのセットを控えて体内時計に任せるしかない。8時過ぎれば城の4階にある共同の朝食用部屋で誰かと鉢合わせになるので、紅茶は自分の部屋に持ち帰り窓を開け放し、のんびり小鳥の声を聴きながらの時間がつかの間の休息といえる。
昼からはかなり暑くなるので昼前までは窓を全開にして涼風を取り入れ作曲に専念。10月までの約束で合唱の松下耕さんからの依頼があり、今年創立10周年の「アンジェリカ」のためにアカペラを書き出す。実はこちらに来て伝統楽器による室内楽作品を書く予定であった。20絃箏奏者の吉村七重さんからの依頼で笙とのアンサンブル作品を考えていたのである。伝統楽器について日本と異なる風土で距離を置いて考えてみたいと思っていたし、財団への計画書にもそのような内容を提出していた。ところが例の食後の会話から逃げるようにして裏庭のベンチでウンブリアの微風に吹かれているうち突如歌を、というよりも人間の声について書いてみたくなったのである。もちろん詩集などテキストになるような物は持参していなかったので取合えずボーカリーズを試し書きのように始めたのが、今やすでに冒頭部分は終わっている。
ところが速度が加速してリズムが重要素材となる部分に至って、パタリと筆が止まってしまった。ここまで来ると言語の問題を避けて通る事は出来ない。今日は単語と向き合いながら一日がかりで悪戦苦闘する。テキストが何かといえばトラベル会話帳ヨーロッパ5カ国語編である。例えば「駅」という単語の右側に各国の発音が並んでいる。スティション(英)、スタシィオン(仏)、スタツィオーネ(伊)、エスタシオン(西)と書かれていて、これを各声部に振り分け、そのことによって同時に発生する微妙な発音ノイズが素材となる。発音の近いもの、異なるもの、濁音、破裂音の組み合わせなどを考えながら整理をして音付けを始めてみると予想外に手間がかかることに気づく。全く同じ発音によるものと発音の近似値から発生する差音やノイズを対照的に構成したいのであるが、英・仏・伊・西の4カ国の言葉を扱うことが果たして正しい選択なのかどうかも含めて、霧の中をさ迷っているような当てのない作業が続く。
★次回第5回「招待された仲間たち」予告
自分に与えられた部屋は城の2階にあり、50人は入るかと思われるサロン風の部屋には古いベーゼンドルファーが片隅にチョコン。壁には200号大の王様とその家族と思われる古い肖像画が8枚飾られ、絵の間を埋めるように11の肘掛椅子が並んでいる…
更新は8月31日(水)です。お楽しみに!