文・絵 原田真帆
ヴァイオリン/第10回現代音楽演奏コンクール“競楽X”審査委員特別奨励賞受賞
今日もまた、新しい作品の譜面が届いた。生まれてから一度しか演奏会に出たことがない作品だ。
今でこそ、わたしが勉強中の楽譜の山の中に、現代曲の譜面が混ざっているのは普通のこと。しかし、かつてはわたしも「現代音楽」を拒否した人間のひとりだった。
小学4年生の頃。
当時、ヴァイオリンの古澤巌氏とピアノの高橋悠治氏によるコンサートシリーズが行われていて、わたしはこの演奏会に足繁く通っていた。
古澤さんはもともと好きだったが、このシリーズで初めて聴いた高橋さんのピアノに、わたしは感性を刺激された。
とてもラフな歩き方で出てくるのに、どうしてこんなに鮮やかで輪郭のはっきりした力強い音が出るのか―――。
同じく感銘を受けた母は、高橋さんのホームページで今後の演奏会情報を見ていた時に、ヴァイオリンソロのための作品を発見し、唐突にわたしに買い与えた。
考えてみてほしい、当時のわたしは現代音楽のゲの字も知らず、モーツァルトを勉強していた9歳児である。
母が別の音楽家の演奏でやはり感銘を受け、いつか弾いてねと言われた「ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲」すら、CDを聴いて絶句したような頃だ。
そんなわたしが、好きなピアニストである高橋さんの作品だから―――といって弾けるわけがなかった。
まず譜面を開いて絶句。音を出して絶句。難しいソルフェージュをするのが嫌になって絶句。1ページほど格闘して出した結論は「まだ弾けそうにない」だった。
それから8年。なんの因果か、わたしは競楽の予選会にいた。
新聞で見た「現代音楽コンクールのお知らせ」を見て、ちょうど譜読みしていた「ルトスワフスキのパルティータ」を弾く場所がほしい、という気持ちだけで出場を決めた。
楽しく弾いたルトスワフスキが、わたしを本選に連れていってくれた。
しかし「この曲が弾けるだけ有り難や……」と思っていたわたしは、本選の無伴奏ソロの曲をまだほとんど譜読みしていない。
「やばい、絶対的に間に合わない」
本選まであと2週間、寸暇を惜しんで練習しなくては。しかし、予選会の翌日の、古澤さんと高橋さんによるコンサートのチケットは、もうずっと前から買ってあった。
そのプログラムには、わたしがかつて歯が立たなかった《七つのバラがやぶにさく》が含まれている。行かないという選択肢はなかった。
練習時間が減ることに若干不安を覚えながらも、日曜の午後、東京文化会館に向かう。
このコンビを聴くのは久しぶりだ。シューベルトのソナチネに始まり、それぞれのソロに入る。
ついに《七つのバラがやぶにさく》の実演を聴く時が来た。
たった1ページで音の描くものが理解できずに譜読みを諦めた曲は、ものすごく前衛的なイメージだった。しかし古澤さんの演奏はとても美しくロマンチックで、原案となった歌曲の歌詞であるブレヒトの詩の世界が、確かに見えた。
何よりわたしが印象に残ったのは、古澤さんがその曲をシューベルトと同じように、かつ普段の古澤さんらしく、いとも簡単そうに弾く姿。いつか読んだ誰かの言葉が蘇る。
「本当にいい奏者は、聴かせる者に『難しさ』を感じさせない」
とても思い上がった考えだけれど、その日の古澤さんの演奏に「わたしもこの曲を弾けるかもしれない! 今なら弾ける気がする!」と思わせられた。そしてわたしもこんな風に現代音楽を弾きたいと強く思った。
続く高橋さんのソロ。わたしは初めてモンポウを聴いた。
作曲者が20世紀の人と知り、つい「現代音楽……」と構えてしまったが、聴けばとてもナチュラルに耳に入ってくる。
確かにモンポウ作品はファンも多く聴きやすい。しかしこの曲が体のphに溶け込むように入ってくるのは、何より高橋さんがとても自然に弾いているからではないか、と聴いているうちに考えを改める。
その弾く姿に、音に、無理がない。高橋さんが譜面を完全に理解した上で、そのままでなく、自分の言葉で音を紡ぎ直しているかのように聴こえた。
ああ、来てよかった、そして早くさらって(練習して)みたい、と上野駅を後にする。
高橋さんと古澤さんの演奏を聴いて得たこのフィーリングを失わないうちに弾いてみたい、この感覚で演奏したらどんな音楽ができるのか試してみたい―――。
迎えた競楽本選。通常、ヴァイオリンで無伴奏曲を弾く時、奏者はちょっとした恐怖を覚える。なぜなら舞台でひとりきりだから、心細く感じるのだ。
しかしその日わたしは恐怖を感じなかった。演出上、譜面台を特定の場所に5台配置する必要があり、スタッフの皆さんが譜面台を持って袖に並んで控える姿を見ていたら、申し訳ないけれどおもしろくなってきてしまった。
この時優勝した佐藤祐介さんに対しての、審査委員長である湯浅譲二先生の講評をよく覚えている。
「佐藤さんは、現代音楽を、そうでない時代の音楽を弾いているのと同じように弾いていて、何より、『ピアノ』をとても楽しそうに弾いていました」
「現代」という枕詞に恐れず、わたしたちは「音楽」をしなければ。
いつどんな時代に書かれたものも、それが「音楽」と呼ばれる以上は、演奏家も「音楽」だと覚悟して取り組む必要がある。古典だから、現代だから。ある意味そんな言葉はいらないのかもしれない。
しかし別の側面から見ると、「現代音楽」というくくりは必要だ。
国際コンクールなどの課題曲を見ても、このラウンドはバッハや古典派を、このラウンドではロマン派を、というように、近い年代の音楽で競い合っている。
例えば、子供への接し方と年長者への接し方を考えれば、その違いはわかる。
コミュニケーションを取る上で、それぞれの年代に適した言葉・内容があり、体力や能力も違う。
一緒に食べるご飯を選ぶなら、相手の好みや体調に合わせたい。子供は洋食の方が喜ぶだろうし、お年寄りは体に優しいものを好む傾向にある。
けれども、子供だから見下したり、年長者だからといってゴマを摺るような、相手によって「態度」を変える行為は不誠実だ。
人と接する時にどのような心持ちでいるべきか、それは不変のものである。
どちらも同じ「音楽」だけれども、現代音楽と古典の音楽とを同時に勝負にかけてしまうと、平等に競うことは難しいというのはこういうことで。
「音楽」へ取り組む姿勢は時代に左右されることなく純粋な心を保つべきであり、それぞれのアプローチ方法は生まれた時代に合ったものにすべきなのだ。
「競楽」というコンクールは楽器や編成の自由がある分、その「音楽の扱い」にフォーカスを当てて審査される。
「現代音楽」をどれだけ「play」できるか。こんなにも「音楽」を試される機会はなかなかない。
わたしは現代音楽に出会ったことで、「音楽」をすることについてより深く考えさせられた。旋律がない音楽を紡ぐのはとても難しいが、音を繋ぐ力を鍛えられる。
わたしが現代音楽にハマるきっかけとなったのは「競楽」であり、「競楽」がひとつ大きな転機だったことは間違いない。
わたしは今、野望が2つある。
まずはいつか出るつもりの何かの国際コンクールにて、コンクールのために書かれた新曲の演奏が「もっとも優れていたで賞」を獲ること。
そしていつか、高橋悠治さんの《七つのバラがやぶにさく》を競楽の本選で弾くこと。
その勝負をいつにするか、まだわたしは知らない。
⇒ 現代音楽演奏コンクール“競楽XII”の参加要項はこちら!
雪国の作曲家たちによる新曲作品展 vol.3
生物図譜〜脈動する・翔ける・蠢く・揺蕩う・囁く・叫ぶ
2016年7月19日(火)18:45開場 19:00開演
文京シビックホール 小ホール
東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園駅」直結
原田真帆 ヴァイオリン
佐藤祐介 ピアノ
丁仁 愛 フルート
白石はるか クラリネット
浦田 拳一 ファゴット
松下 洋 サクソフォン
立石さくら ヴィオラ
上田 実季 ピアノ
《プログラム》
旭井翔一(2014年度富樫賞受賞)/Bubobubo
川上 統(第20回現音作曲新人賞受賞)/ラナンキュラス
佐原詩音/ルドンの黒
助川 舞/緒
辻田 絢菜/Ta-tan-ta-ta
薮田 翔一/Collide
他
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全席自由
前売 一般3,000円/学生2,000円
当日 一般3,500円/学生2,500円