フォーラム・コンサート第2夜 (11月25日) レポート

現音 Music of Our Time2022のフォーラム・コンサートは、11月24日と25日の2夜にわたり開催されました。
今回は出品者のレポートをお送りいたします。

 

フォーラム・コンサート第2夜 レポート    大平 泰志

エロス(性)とタナトス(死)

この度の、ダンテスダイジによる 2 つの歌曲は、性と死という、相反するものを扱った。 ダンテスダイジは禅者であり、絶対意識に達した最終解脱者でもある。 彼は、悟りの意識を 4 つに分類した。
それは以下のとおりである。

個人的無意識

普遍的無意識

宇宙意識

絶対意識

宇宙意識は、鈴木大拙なども著書の中で詳しく述べている。

宇宙意識とは、何も宇宙と一体になるとか、そういうことではなく、その無限性ゆえに宇宙的と

名付けられているのである。プラトンが言うイデア界である。

個人的無意識に人が達すると、あらゆる劣等意識から解放され、比較によらない自信をもたらす。 これはマズローならば、承認欲求の充足及び超越というだろう。これはナザレのイエスが 2000 年前、十字架上で達した悟りである。ナザレのイエスは、十字架の上で最初の悟りを開いた。

普遍的無意識に人が達すると、個別の我が消え、一つながりの生命という認識に至る。これは現 象界に対する圧倒的支配力をもたらすこともある。ここにきて、人は、自我が勝利することはない。ということを知る。これはゴータマシッダールタが、35 歳のとき、菩提樹の下で達した悟り である。ゴータマは、菩提樹の下ですべてが悟ってることを悟った。言い換えるならば、彼一人だけが間違ってることに気づいたのである。妻子を捨てわけわからない悟りを求めてた自分だけが間違っていた。しかし、それに気づけたから、その努力さえも無駄ではなかった。と気づいたのである。人はここにきて初めて真に自我との戦いを本格的に始めるのである。ゴータマは初めて自我の根本的過ちに向き合ったのである。

個人的無意識と普遍的無意識は、続く二つに比べるとまだ迷いの意識と言われることもある。

私自身が、普遍的無意識に意識を凝結させることに成功したのは、2020 年 3 月 24 日の夜であっ た。それ以来、私の人生及び、音楽的課題は、次の宇宙意識を描写しとらえる努力へと移行した。

本作品は、その初歩的努力の成果といえよう。

 

フォーラム・コンサート第2夜 レポート    楠 知子

今年は、日本中が沸いたサッカーワールドカップ2022があり、日本が強豪ドイツとスペインを破 って決勝に進むという歴史的快挙を成し遂げた、まさに初戦の 11 月 24 日、(日本現代音楽協会・ MUSIC of Our Time2022 Forum Concert 第 1 夜)が東京オペラシティリサイタルホールで開催された。

私は今年もインターネット配信が実施されたおかげで、全Concert と 11 月 13 日の事前レクチャー と 12 月 4 日の事前アーカイブ動画を鑑賞することができ、現代音楽の現在を私なりに理解することができたことを深く感謝する。
昨年は自分なりに次のようにConcertの傾向をまとめてみた。 (1)オーソドックスな楽器を使いな がら異化して、新しい価値を生み出す。(2)内容に重きを置いて、音楽従来の 3 要素を保守しながら virtuosity を追求し、聴衆に訴える。(3)単純な音を使いながら、創作の意味を問う

Forum Concert は圧倒的に(2)が多かったようで 1900 年代―からの技法を思わせるものもあり、対位法/広義の和声法などアカデミックな技法に裏打ちされた傑作揃いで、すべての曲の構造を理解できた。その中でも私作品は(1)二宮作品は(3)だったと思う。

それに比して、新人賞本選会では音を音響として捉えているものが多く(1)、特殊奏法の演奏が 非常に優れていた。
全体を通して、今までどこかで見聞したScenesではあるが、音楽としては 新鮮で心に残ったものは、12 月 8 日小寺加奈・微分音カタログー旋回する鳥 II、二宮作品三瀬川、カーゲル事前動画。 今回私が書いた動機は、昨年東京藝大―創造の杜での斉木氏のレクチャーでの IRCAM の言及と Forum Concert 2021 の HYMN III、今春の Lapsのテクニック解説のレクチャーetc を聴いたこと。この分野は不得手と思っていたが、避けて通れない最近の世相を考えると、手はじめに Finale の MIDI 機能と生ピアノをコラボさせてみようと考えた。以下に自作についてのコメントを記す。

(作曲サイト)S氏;   CDを送ってほしい。露木氏の作品を聴きたかった。他;なぜか視聴できなかっ た。題名が歴史に残るとよい。同学年の女流作曲家はユニークで、続けてほしい。

(演奏サイト)O 氏;  音源にあっていてアンサンブルがとてもきれいに聞こえた。ピアノの音色感もよ かった。インターネット配信で聴けて嬉しい。
I氏;高校生と大学院生と聴き、貴重な体験だった。響きが好き。ピアノも素敵だった。プログラムノ ートも見、曲作りと合わせて聴けたが、バックサウンドの音量が小さく、全体のバランスが?だった。
S 氏;  可愛いメロディーが入って流れるピアノの旋律が美しく素敵だった。 他;デジタルサウンドとコラボで素敵な演奏だった。作品を何度も聴くと緻密で奥行がある。パワフル
(一般);  落ち着いてサウンドも入りアンサンブルのように聞こえた。パソコンをセットアップして、演奏会を聴くのは初めてだったが、よい経験になった。洋服も似合っていた。 ピアノとデジタルウインドの響きが融合して、とても快く興味深く感じた。活動が途切れることなく続けているのは素晴らしい。活躍ください。

このように、まとめてみると、少しずつでもできなかったことができるようになり、音楽についても理解が深まることが嬉しく感じる。

 

フォーラム・コンサート出品作曲家の皆様へ
「作品と同じように解説文も丁寧に書きましょう」       河内 琢夫

2022年度のフォーラム・コンサートは去る11月24日と25日の2日間に渡って行われましたが、プログラム・ノートを読んで感じたことがあるので、以下それについて書かせて頂きます。それぞれ皆様の作品そのものについて語る(批評する)資格と資質を私が備えているとは思っておりませんので、それらは割愛します。

プログラム・ノート(それぞれの自作についての解説文)については、ずいぶんと読者(聴衆)に対して誠意のない不親切で拙劣な文章が多いと感じました。それらの文章は大別すると、およそ3つの傾向があると感じました。


1)自分の心情や私生活のことなどをとりとめなく、長々と書く。そのため文章にメリハリがなく、何を言いたいのか、わからない。だらだらと続く、弛緩した言葉の羅列。


2)1とは逆に文章が極端に短い。これでは読者(聴衆)は取りつく島もない、と云った印象を受け、
見捨てられた気分になる。その文章はあたかも「何も言いたくない。黙って俺の曲を聴け、そして俺の気持ちを察してくれ」と言わんばかりである。


3)楽曲解説以前に、書き手は日本語の作文に慣れていないのか、日本語として成立するかしないかの、
ぎりぎりの線にある稚拙な文章。

以上、3つの傾向は全て内容の薄いものです。


コンサートにいらっしゃるお客様は現代音楽マニアの方ばかりとは限りません。クラシックは聴くけれども現代音楽は
初めて、という方もいらっしゃいます(むしろ、そういう方の方が多いのではないでしょうか)。ご自分の身に照らしてお考え頂きたいのですが、コンサートの集客をするということは非常に大切なことであると同時に大変なことです。

作曲する時と同様に自らの想像力を使って、もっと読者(聴衆)目線に立って、文章を書いて頂きたい。

他者に自分の意志を伝える気はないし、その必要もないのだ、というお考えの持ち主がもし、いたとしたら、そもそも、そういった人がなぜ、公の場で自分の作品を発表するのか、疑問です。もし今後も自分の考えを変える気がない、というなら、別に発表の場を探して頂きたい。

最後の3)に該当する方、本多勝一著「日本語の作文技術」(朝日文庫)をお薦めします。これ一冊読むだけで高校卒業レベルの現代国語力が身に付きます。

以上。                                          河内 琢夫