現音 Music of Our Time2023のフォーラム・コンサートは、11月30日と12月1日の2夜にわたり開催されました。
今回は出品者のレポートをお送りいたします。
フォーラム・コンサート第1夜 レポート 楠 知子
一昨年・昨年と相次いで、存じ上げている日本の著名な作曲家や生まれ故郷の恩師が他界された。私も年を取ったので当然といえば当然なのだが。せめてこの気持ちを曲 にしようと、過去を振り返り、ソナタ形式での曲を書いた。5 年間 Piano の小品を書 いてきたが、こうして思い起こすと自分の無調と調性の間を行き来する曲の傾向がわ かった気がする。
以下自作についてのコメントを記す。
(作曲サイト)U 氏;指がよく回る M 氏;年配女性の生活感
(演奏サイト)O 氏;宇宙空間に星が見える。表情が場面場面で違って聞こえた。
他;音がきれい。Piano が年々上達している。夕方の風景が浮かぶ。
(一般) ・落ち着いて素晴らしい演奏だった。ドレスも素敵だった。
・素晴らしい。夕焼けを連想した。演奏会は他作品も含めて強烈な印象
・初めてこのような音楽を聴いてよくわからなかった。
他の方の作品を聞いて。
3 年前からの自分なりの Concert の傾向のまとめは
(1) オーソドックスな楽器を使いながら異化して新しい価値をうみだす。
(2) 内容に重きを置いて、従来の 3 要素を保守しながら virtuosityを追求し聴衆に訴える。
(3)単純な音を使いながら、創作の意味を問う
この分類に従ってみると(1)と(3)に分類される河野作品は徹底的に打楽器的な piano と、Bass Cl の 1 音が何と輝きに満ちていたことか。
植野作品は現在の東欧・ 中東の情勢に対する作者の悲痛な叫びが女声や減7の和音によってよく伝わった。
松岡作品はオーソドックスな筝の奏法に複調の尺八がデゥオし、新しい渋い感覚を紡 ぎだしていて、作曲者の意図がすばらしい。
2夜は、西洋的な特殊奏法を駆使した、精緻で洗練された傑作が多かったが、傾向の 違う、モンゴルの民謡を含む河内作品は、日本の民話に通じるものがあり素直に楽し めた。新人演奏会は昨年に比べると、作曲技術の優れた、日常生活の中からヒントを 得た、今後も再演される可能性のある大人しい作品が多い印象だった。
フォーラム・コンサート第1夜 レポート ロクリアン正岡
弦楽四重奏曲第5番「いのしし人間の諸相」の思想的背景
演奏者の大熱演のお陰で多くの賛辞を頂いているこの作品(彼らの承諾は受けており3月頃には公開できる予定)。私は大のクラシック音楽好きでその中心には弦楽四重奏(SQ)が居座っている。プラトン語る永遠界から降ってきたようなその演奏形態を一緒に考えたい。
現実の現代音楽はあの隆盛を極めたクラシック音楽の末裔としてはいかにもじり貧だが、SQの歴史を見るとベートーヴェンの偉大な作品群のあとは大作曲家達も作曲することが少なくなり、残る力作群もとうてい彼に太刀打ちできるものではない。
目立つところではシューベルト、シェーンベルク、ウェーベルン、バルトーク、ショスタコーヴィッチがある。だが、シューベルト独特の癒し性にSQの規範性は向いていない。シェーンベルクの音楽語法の難解さはそれを食する聴き手を無視している。ウェーベルンは学究的に緻密だが土台かつ所詮、特殊志向、特殊達成である。バルトークのは自己アピールの為の作曲パフォーマンスであり,親しみやすいが甘え根性は否定しがたい。ショスタコーヴィッチは音楽そのものに勢いがあるが、土台、即興作曲的でコクがない。いずれにしても弦楽四重奏に相応しい普遍性が意識されていない。
SQはスカルラッティ(1660年生)が発端でこれまでの歴史は短いものだが、そのずば抜けた普遍性と潜在的(作曲)可能性を思えばこれからの方がはるかに長くあってしかるべきものだ。その“器”としての非個性性と汎用性と来たらまるで絵画の額縁、その方形に匹敵する。また、高低差ある四つのポジションに置かれた弦楽器であることにより、人間の聴を大きく広げるとともにその裡の深くに染み入る能力を有する。聴⇒心⇒魂であり、当然それに関わる作曲活動は魂⇒心⇒聴である。
この中で、永遠性を有するのはただ魂である。当然、それは我々における生死を超越するものである。心や聴はこの世における生あるものに与えられた能力であり現象である。だが魂は違う。魂があってこそ心も聴も成り立つ。だいたい魂がなければ自己もなく、世界もない。言い換えれば、永遠がなければ時空もない。
我々には意識というものが与えられているが、それは永遠からくる光なのだ。それを瞬間と呼んでいる。そしてその瞬間があるからこそ、時間の推移や空間の広がりも与えられる、というものだ。
わが師、三善晃は面白いことを私に語った。「ベートーヴェンの作曲は直線を引き、またそれに重ねて直線を引き、ということを何度も繰り返すやり方だ」と。もちろんその直線とは時間ベクトルである。猪となって作曲した者としては、これを猪突猛進法と名付けたいほどによくわかる。
時間線の上を滑りゆくものじゃない。瞬間に降り注ぐ光に抗するかのように真っ直ぐ突き進んでゆく猪の如きベートーヴェン。それに比べたら、それに続く作曲家の作品はすでにけもの道と化した時間線の上を滑りゆくような印象がある。さすがに第二ウィーン楽派あたりから、別の道を歩もうと道つくりを始めたものの、太陽の光の注がない文化的暗がりの中という観が私にはするがどうだろう。もちろん現象として明るく健康的で生命力にも事欠かないものもあるが、何か厚みがなく皮相的なのだ。逆に暗いものは深刻ぶっている感じが否めない(坂本龍一氏は優れた現代人ではあるが、シリアスな楽曲がないのは時代の責任というべきかも)。
だから私はイノシシであるほかないと思った。少なくとも第5番という猪突猛進劇「運命交響曲」と同じ番号を標榜する今回は!
もちろんベートーヴェンには叶わない。彼は大変イノシシ的ではあるが、あくまで人類の作曲家としての高さを実現している。その陰影の豊かさ、彫の深さ、自由自在さ。よくも猛進しながら多様に踊りまくれるものだ。
だが、受け入れがたいところもある。
歓喜の合唱のなかの次の歌詞
「大きな幸いを得たひと、(すなわち)ひとりの友の友となり優しい妻を得たひとはその喜びを共にしよう!そうだ、たとえたったひとつの魂であっても自分のものと呼べるものが世界の中にあるのならば!そしてそれができないものは、そっと出ていくがいい涙しながらこの集まりの外へ!(インターネットにあるThe Web KANZAKI music & knowledge sharingベートーベン第九の歌詞と音楽 から引用させて頂いた)
これはちょっと冷たすぎると思う。最近ジェンダーレスということが標榜されているが、SQ第5のコンセプトでは知的障碍者とIQ最高者との差別など無意味であるどころか、そんな小さな違いを飛び越えて、(全生物間とはいわなくとも)全哺乳類間の差別【≠区別】を無くそうという分け。
だから私はベートーヴェンにクレーム付けたい。
「一人身だって差別しちゃダメ。あなた様の時代にもいただろうし、後世の21世紀にはますます増えつつあるのです。せめても一緒になって仲間に入れるよう努力し続けるべきではないですか?」と。
補)なおこのフォーラム・コンサート(旧アンデパンダン展)に私は2009年以来連続出品しており、弦楽四重奏は1番、2番、3番と発表(4番は作曲のみ)して来ているのでその感謝の念も深く、今回、思いのたけを語らせて頂いた次第です。さらに深くは私のホームページに書き足してゆく所存です。
2023年末 日本現代音楽正会員 ロクリアン正岡
フォーラム・コンサート第2夜 レポート 小坂 直敏
昨年12月1日のフォーラム・コンサート第2夜にヴァイオリンとピアノのための「今若冲蝶の図より「クジャクチヨウ」という題名のを出品した。作品の提出が遅かったため、演奏の出来が不安であったが、作者の意図が正しく表現できていたように思う。特にヴァイオリンパートは徹底的に名人芸的な要素を書いたが奏者の美嶋佑哉氏の演奏は作者の期待に十分に応えてくれた。
その他の作品では自作品も含めて、1人~2人奏者の作品が主であったが、河内琢夫氏の箏やモンゴル歌唱を取り入れた作品、早川和子氏の3人の声楽家とピアノによる作品など、ユニークな編成および作品構成となる作品もあり、聴衆は有意義な時間を共有できたことと思う。
残念であったのは、同日に本コンサート会場と同じ東京オペラシティのコンサートホールでのオーケストラ・プロジェクトの公演と重なり、集客が競合してしまったことである。今後は、公演日程をずらすなど、スケジュール調整が図られたい。