第1夜:田口雅英/橘 晋太郎/高嶋みどり
第2夜:藤原嘉文/ロクリアン正岡
第1夜
田口 雅英
昨年に引き続き、今年もフォーラムコンサートに邦楽器作品で参加させて頂くことになった。昨年は三味線二重奏(ともに弾き歌い)であったが、今年は薩摩琵琶と筑前琵琶の二重奏(ともに弾き歌い)となった。
この特徴的な編成も、フォーラムコンサートへの出品も、最初から意図していたのではなく偶然の産物である。
作品は、コロナ禍の為中止になってしまった某コンサートの為に作曲を計画していたもので、せっかく演奏家の方ともご縁ができたのでぜひ何かの機会に形にしたいと思っていたところ、フォーラムコンサートの出品募集が良いタイミングでやってきたのだ。
またそのコンサートの為に最初は薩摩琵琶の二重奏を考えていたのだが、考えうる演奏者の方のご都合や、コンサートの準備上早めに奏者を確定させる必要などの都合で、たまたま薩摩琵琶と筑前琵琶という編成を選択することになったのである。
ただこれは、結果的には非常に面白いチャレンジとなったので、ある意味運がよかったのかもしれない。
薩摩琵琶と筑前琵琶には、琵琶類の楽器であることなどの共通点はあるが、それぞれの歴史や多数の流派があり、それぞれ違う発展の経緯をたどっている。とはいえ、現代音楽に挑戦するような奏者の多くが使っている楽器は、柱の並びや絃数、調絃法などが共通するようになっている。
結果として、両社の顕著な違いとしては、音色や薩摩琵琶では撥を胴に当てる打撃音が使用できること、などだけとなってくる。
その楽器の背負った伝統はひとまずわきに置いて、楽器の可能性のみから発想すれば、薩摩琵琶と筑前琵琶という編成である必然性を持たせるためにはそのあたりの違いがカギとなるのかもしれない。
ただ私私には、邦楽器のために作曲する場合に、その楽器の背負った伝統はひとまずわきに置いてという発想はどうもできないようだ。
長期間にわたって邦楽器の訓練を受けたわけではないが、地歌音楽の教師を祖母にもち、邦楽や民謡などにそこそこ親しんできた私にとっては、邦楽器が伝統的に持っているそのジャンル特定のパターン化した動きや伝統的な音階などを使って偽古典的な動きを作りつつ、そこからいろいろな形で逸脱していくようにする、という発想の方が面白く感じるのである。
このような発想をすれば、薩摩琵琶と筑前琵琶の古典では、それぞれに特徴的なパターンは似ているものも多いが明らかに違うものも多く、両方の楽器を使って曲を書く上で、後者のパターンを使うということも視野に入ってくる。
今回の作品では、そういった両者で明らかに違うパターンを両楽器それぞれのパートに取り込んでいる。
また、筑前琵琶にはごく一般的な調絃、薩摩琵琶には古典曲でも使われている低音を強調する別の調絃を使う、といったことでも両者の違いを表そうとした。
古典的な動きを使いながらも現代的な発想でそこから逸脱するための手法としては、弾き歌いのところで使った、同期しない二つのパートが、同じ旋法で重なる/同主音の違う旋法で重なる/4度関係の音程差を持った同じ旋法で重なる、などのやり方を用いた。
2楽器間の音程関係を非協和的にすれば、古典的な動きを全面的に使っても、全体的に非協和的な音が支配する曲を作ることが可能だったと思うが、今回は薩摩琵琶と筑前琵琶の古典で見られる特徴的パターンなどを明確に聞かせたかったので、全体的には穏健な響きの曲となった。
こうした発想の方向で作られた曲には、柴田南雄氏や高橋悠治氏などの作品に、すばらしいものが多々ある。
今回のものも含めて、私の邦楽器作品がそうした作品のような高い説得力を持つ域に達していたかと言われれば非常に心もとないが、今後もそうした方向で邦楽器の作品を多く作曲していきたいと考えている。
橘 晋太郎
去る2020年11月26日、フォーラム・コンサート第1夜に参加させていただきました。新型コロナウィルスの影響により演奏会の開催が困難となって半年近く、当分新作発表は厳しいかな、などと半ばあきらめかけていました。しかし9月、フォーラム・コンサートの開催決定の朗報をいただきました。「新作を継続して発信していくことに大きな意味がある」というあたりまえの信条も、それが許される状況下であればこそです。コロナ渦の鬱々とした毎日から一歩前に踏み出せるのでは、と希望をもらった気持ちでした。感染対策に関する制限のあるなかで開催まで漕ぎ付けることができたのは、ひとえに事務局の先生方やスタッフの皆様の多大なご尽力があってこそと存じます。心より感謝申し上げます。
また、演奏をお願いした伊藤先生、星野先生には、こういった状況であるにもかかわらず幾度もリハーサルをしていただきました。スケジュールの都合上、私はなかなか立ち会うことができなかったのですが、zoomを利用してリモートで参加し、「withコロナ時代のリハーサル」を先取りした気分でした。本番では、素晴らしい演奏で作品を後押ししていただき、作曲家としてとても幸せな時間を味わえました。ありがとうございました。
もう一つ、youtubeによるリアルタイム配信、アーカイブの視聴についてです。このシステムよって、場所や時間を気にせずお誘いすることができたのは画期的で、授業の都合上なかなか現地に来られない学生からは特に好評でした。
良くない状況から前進するために試行錯誤し、そのバイタリティが「次」を切り開いていく様を体感した稀有なコンサートでした。この経験を活かしつつ、今後も新作の発表に邁進していきたいと思います。
高嶋 みどり
コロナ禍でのコンサートの実現は、予想を超える程に大変なご苦労とご苦心の連続ではなかったかと拝 察申し上げます。多大なご尽力をいただきました、先生方、スタッフの方々、関わって下さいました全ての 皆様方に、心より御礼申し上げます。
このように困難な状況下での生活は、しかし、音楽、芸術活動に携わることの意味や意義、楽しさ、素晴 らしさ、・・・・・を最確認させてくれるきっかけともなりました。芸術が、人間の心の内部に、押し付けがまし くではなく、人が求める分だけ立ち入ることが出来るものであるということ事、芸術することが心の支えや 柱であり、芸術することこそが救いであるということ、等、芸術の存在意義を明確に実感することができる 貴重な時間であったとも思います。このコンサートに関わられた方々の多くが、その様な使命感にも似た信 念を持って活動を続けておられるという気概が伝わってくるコンサートのように感じられ、今後の活動継続 への決意と勇気を奮い起こさせてくれる様に思いました。私の出品作は、特殊奏法がとても多く、アンサン ブルもとても難しいものでしたが、素晴らしい演奏で表現していただくことができ 、大変有難く存じまし た。あらためてこのフォーラムコンサートに出品させていただく機会を いただきましたことに感謝申し上げ たいと思います。
インターネットによる同時公開公演は今回が初めてだそうですが、コロナ禍のみならず、高齢化が進む 社会ではとても意味のある事だと思いましたので、コロナがおさまった後も、ぜひ続けていただけますこと を希望致します。 素晴らしい演奏をして下さいました演奏家の皆様方に、そして繰り返しになりますが、コ ロナ禍でもコン サートを実現に導いてくださいました全ての方々に、深く深く感謝申し上げます。
第2夜
藤原 嘉文
名称を「フォーラムコンサート」と変え装いも新たになった当作品展が、コロナ対策によって、現音始まって以来のインターネット配信となった。結果は、新たな視聴者を増やすこととなった。ネット券、座席券共に本番数日前には手元から無くなり、事務局サイトから購入してくれるようにお願いした方もいるくらい反響が大きかった。平日の夜は仕事などの都合でなかなか出かけることのできない人、あるいは首都圏以外に在住の方など、今まで同時代の作曲作品に接することのできなかった多くの人に、現音の活動を広く知ってもらうこととなった意義は大きいと思う。映像・音源の質も、想像していた以上に良い状態で、かなり臨場感のあるものであり、関係者に感謝したい。一日も早いコロナの収束を願っているが、元の日常が戻ったとしても、このインターネット配信は是非継続してほしいと願っている。
ロクリアン正岡
曲の出だしから繰り返されるピアノのゆっくりな全音音階WTSによる上行パッセージは「羊水に気持ちの良いさざ波を立てるがごとくに!」というもの。全音階DSと違い、個を持たず全的である。
ところが私がイメージした一家族とは、家鼠、猫、ゴリラ、美女という一瞬の同居も不可能なほどの構成メンバーで地球上人類集団のひな型ともいえる。そこでは4種と言わず、無数の多種多様な生物/無生物、要するに万物が雑居し、それぞれ、生/死や形成/崩壊を繰り返しつつ、全体としては悠久の歴史に耐え現在に至っている。
それを我々はこの世に生きる立場から観て云々しているのだが“生死を超えた観点から”すれば、どう叙述表現されうるだろう。およそ生あるものの基本は「眠り」にあり、その状態は無生物にも通じつまるところ万物共通である。万物は均質な海に眠る。だからこそ逆に生き物は均質さの破れには敏感で「気づき」が生じるのである。
これだけ相互間の違いが目立つ4人家族を崩壊に至らないようにするには、まずは各者に共通の“均質性”に与ることだ。そのためにWTSという“均質さ”の見える素材を頻用したのである。ところで、芸術において登場する役柄は多かれ少なかれ作者の分身であり、私は私自身の均質さというものを参加させた。また一方、作者は役柄に対して観察者でもあり操り人でもある。
だがもっと根本的で大切なことがある。それは自分を超越するということ。今回は均質さという存在の本源性に与ろうという思いから、「神から公平無私な視線」を浴びる姿勢をとり続けた。それを受ける私自身を含めた大地も健気だが、その光の下で仕事をしなければ対象が良く観えない、ということもある。
そしてなお、ここで私がモーツアルトの楽曲(歌詞無し)を聴いていて上方から差し込んできた「みんな仲良くね!」がこれほど作曲の基本コンセプトとなったことはなかったのである。次は ネットで優れた芸術評論を続ける齋藤代彦氏の言葉(楽曲への鋭い評論は私のHPに)である。
人間の喜怒哀楽が織りなし繰り広げるようなこの曲は、大岡三佐子さんがピッコロを通し微妙な感受性を、倉愛花理さんがクラリネットを通し、優しい温もりある人間性を、本橋隼人さんがチューバを通し、頼りがいある信頼性を、新居由佳梨さんがピアノを通し、叡智を秘めた純粋性を担当することにより音楽的真実という本源的真実への自己超越的一体性へ思いを至らせてくれる。
鼠、猫などの役柄ではなく、役者が齎した鑑賞の実質を想えばまさに正鵠を得ているといえまいか?
また、次はピッコロ担当の大岡美佐子さんからのもの。
今回はコロナ禍での開催ということで演奏する側も、お客様側も例年とは少し違う様式でのコンサートでしたが主催者様側のしっかりとした対策のおかげで演奏者としては何の不自由もなく本番での演奏を終える事ができました。また、例年にはなかった、動画の生配信も個人的にはとても良い経験となりました。演奏するに際し適度な緊張感を保つことができたことと、アーカイブで客観的な見え方を体験することができました。これまではどこかで生演奏でなければ伝えることができないと思っていたのですが、想像していたよりもしっかりとその場の空気感が伝わるものでした。(また、個人的な話になりますが、一歳の息子も家で生配信を見ながら曲に合わせて体を動かしたり声を出したりして楽しんでいたようで、ホールではなかなかできない経験をさせてあげることができました。遠方の方や小さなお子さん、体調などにより外出することが難しい方にも楽しんでいただける素敵な方法だと思います。今後とも是非継続していただきたいです。
末筆ではございますが、日本現代音楽協会様の益々のご発展をお祈り申し上げます。
実は奏者全員から喜びの言葉をいただいているが、それはHP(locriansaturn.com)に掲載します。
なお、本号に拙論文「生死を超えた観点から、音楽史の過去・現在・未来を考える」が掲載されている。それは、この作曲の哲学的背景をなすものであると当時に、この四重奏曲はその考えの正当性の証、という関係にあります。ご一読をお勧めする次第です。
本公演の模様はユーチューブでお楽しみください。