フォーラムコンサートレポート

現音 Music of Our Time2024のフォーラム・コンサートは、11月28日と11月29日の2夜にわたり
開催されました。
今回は出品者のレポートをお送りいたします。

 

フォーラム・コンサート レポート①   大平 泰志

今回のコンサートは前回よりレベルが上っていたと思う。これは聴衆の皆さんも感じたことだろう。個人的反省として、拙作は硬質な音が多く、ギャラントさに少しかけた気がする。

単純な音型を使っていても、前後との関係や、文脈でハッとさせられる作品があった。

先日、exileのtiamoの歌い方解説のYouTubeを見ていたのだが、日本語って情緒表現において、感情の繊細さを伝えるには、とても優秀な言語であると改めて感じた。

人がくれた優しさや愛は、短い間でも、心に残るものである。昔、知り合いの女の子に、人生を通じて恋愛と仕事とどちらが自分を成長させてくれたと思う?と聞いたら、うーん。仕事かな。と帰ってきた。

インドの格言に、神(ishvara)を欲しがる人は少ないが、神の所有物(aishvarya=権力)を欲しがる人は多い。というのがある。

有名な文豪のスタンダールは、軍人としてのキャリアで得た人間的成長は、恋愛で得たそれに比べるとままごとみたいなものであった。とのべている。

金や権力好きよりは、人が好きってたしかに真の意味でまともだよな。と思った。

本作は、献身、意志の固さと言う題材で創作されたのであるが、流線的、ドラマ性、色んな面から、他の作曲家の方に学ばされました。

まだまだなので精進します。今後とも宜しくお願いします。

大平泰志

 

フォーラム・コンサート レポート②   平良伊津美

2024年フォーラムコンサートを振り返って

ハープを編成に入れた作品は、学生時代以来初めてで、ほとんど素人同然でした。ハープのことはすっかり忘れてしまい、作品を書いたものの、デタラメでした。無い音を書いたり、指が届かない音を書いたり、ハープ奏者の方と共同作業で作品を作り上げていきました。
フルートは毎回、書いているので、慣れたものでしたが、本番後、お客さんからは、ハープが良かったという、感想を多く頂きました。慣れたフルートが評価されず、慣れないハープが評価されるという意外な結果でした。
また、「ハープの使い方が新しかった」という作曲家の友人に言われ、驚きでした。フルートは慣れているので、もしかしたら奏法がマンネリ化していたのかもしれません。一方、慣れていないハープは、気を使っていた分、良い評価を受けたのかもしれません。
2年後、またフォーラムコンサートに出品したいと思っていますが、編成は、フルートとソプラノにしようと思っています。次回は、片方のパートのみが評価されるという結果にならないようにしたいと思います。

 

フォーラム・コンサート レポート③  ロクリアン正岡
弦楽四重奏曲「ピカソ流」を中心に思うこと 
「おびただしい“音楽もどき”の渦中にあってどこまで超越的生の表象が実現できるか?」
                                                                                         

79歳になり一層高まりつつある我が内なる「言わせてくれ/音を与えてくれ!」という要請/呻きがあり、それにどう答えるかが作曲家LMの責務/使命である。これは原因から結果まで決して独りよがりな所業ではないと弁えます。この文をお読み下さっているあなたをはじめとするすべての人間、生き物はこの世へ生れ出るのに狭いトンネル/針のような小さい穴を“向こう”から貫通させられるような苦しみを味わったに違いない。

ビッグバン以前はわからないといわれるが“向こう”もわからない。だが、わからないといって「そんなものあるわけない!」と感じ思うとはなんと酷い/惨いことであろうか?それは、“意識の無痛分娩”によるところか?

一方、誰でも将来側のことである死後は気になる。そこで宗教の教えやお利益りやくに身をゆだねたり、世に飛び交う諸情報に思考を預けたりする。だが、人間だれしも現世に生きている最中根っこは失われずそれは“向こう”(の土壌)に根差し続けているのだ。それはもちろん私なんかの妄想ではなく、生まれる前も死んだ後も存在し機能し続けている過去未来を超えた故郷というものだろう。だったらそこと交信することが死後に明るくなるに一番というものだ。そう言えば面白いことに高齢になってくると“向こう”が将来側に廻って吸収力として感じられるようになるのだろうか。冒頭に述べた要請/呻きに対する感受性が増したのだろう次の文章は93歳になられる方からのSQ6受容体験である。

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 弦楽四重奏曲第6番「ピカソ流」を3度拝聴しました。ハイドン、ベートーベンらが作曲した弦楽四重奏曲に脳が慣れ親しみ、その枠から抜け出られない者にとって、弦楽四重奏曲第6番を聴いたときに、その差異の大きさに驚き、弦楽四重奏曲第6番は最先端の楽創だなと思いました。ゆったりとした時が流れていた時代とは異なり、現代は、多種の情報が瞬時に押し寄せてきて、まさにカオス的な風が吹いています。社会学の無知な私には、社会的カオスの底流に流れている時代の風の本性は分かりませんが、物理学では、自然界のカオス的にみえる現象の底流に流れている整然とした法則を見出し整った学問に仕上げています。 弦楽四重奏曲第6番には、カオスもあり、秩序もあり、ゆったりした気持ちになるメロディーもあり、よどむことなく現代に流れている不定さに立ち向かうような力強い楽の音を感じます。 

 脳学者池谷裕二氏の説によると、脳は旧脳と大脳新皮質とがあり、旧脳は進化的に古く、原始的な生活を生きるために働いてきたものであり、大脳新皮質は進化的に後から生まれ進化と共に肥大化し人間らしさを表現するのに働くと理解していますが、弦楽四重奏曲第6番を3度聴くと、不思議なことに、旧脳を刺激されるようで、もっと聴きたくなります。現代の底流に流れているカオスの本性をこれからも創作されますことを期待しています。日江井榮二郎(太陽物理学者 国立天文台名誉教授)

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12月18日に野田暉行追悼演奏会に行って来た。遅ればせながら、氏の作品を纏まった形で聴いたのは初めて。私も有名な現代音楽の楽曲は海外のものまでよく聴いているが「これだ!」という思いだ。その“静けさ”は何だろう。氏自身の心の静けさだろう。諸変化をもたらす時間の外にあり続けるその音楽に私が聴き取り感受したのは“向こう”との緊張関係に徹する氏の意識と意志である。強烈な禁欲性のもとにおける雑念の完全排除か。「まさに野田暉行、恐るべし!個性のうるさい諸現代音楽群の中で・・・・」

作曲とは!

生と死を繰り返しながらより大きな生/超越的生を形成してゆくものを信じるのなら、音楽ほどそれを表象するのに格好のメディアはないであろう。

ところで人の耳は時間流である。そこにあっては音は常に生まれては消えてゆく。たとえ楽曲や演奏のほうに超越的生がなくとも、人々の耳や心はそれを暗に期待する。現に人間そのものは、演奏者であれ聴取者であれ真実として超越的生そのものなのだ。となれば“超越的生そのもの”を純粋に取り出して味わうところまで行かずとも、つまり”音楽もどき“であろうとも満足してしまうもののようだ。

  -以上、自作に対する反省を込めて        
                     (2024年末 正会員 ロクリアン正岡)

 

フォーラム・コンサート レポート④           露木正登
フォーラム・コンサート雑感~ネット配信の効用について   

今年のフォーラム・コンサートでは当初、来場を予定していた知人・友人たちがコンサート当日に急用などで欠席するなどほとんど壊滅状態で、その意味では私にとって淋しい会ではあったが、ネット配信のお陰で、欠席した知人・友人から後日、「ネットで聴いた」という連絡をもらって作曲者としてはとても嬉しく思っている次第である。

ところで、フォーラム・コンサートのネット配信は本当に素晴らしい取り組みだと思う。なぜ、こういう取り組みを以前からやってこなかったのか……ネット配信は新型コロナが蔓延したことがきっかけで始めたわけだが、そう考えると、新型コロナの時代を経験したことは決して私たちにとっては無意味ではなかったことになる。

音楽はコンサートで生演奏を聴かなければ意味がない、という人がいるが、指定された日時にコンサート会場に出掛けて聴くことができる人は限られている。しかし、音楽作品はできるだけ多くの人に「聴かれる」ことを必要としている。新しい音楽を聴きたいと望む人がいるにも関わらず、たまたま都合が悪くてコンサート会場に出掛けることができないという理由から新しい音楽を聴く機会を奪ってしまうのは残念なことである。

私は音楽とはまったく無関係の仕事をしているため、職場の同僚で音楽に関心を持っている人はまったくいない、と言っていい。ましてや現代音楽などはまったくと言っていい程、一般の人には認知されていない、というのが実情である。

音楽に興味のない一般の人が、現代音楽を聴くために仕事帰りにわざわざ上京して都内のホールに立ち寄り、2時間(あるいは2時間30分)も拘束されることを誰が望んでいよう。しかし、私の職場でもネット配信であれば拙作を聴いてみたい、という人が少しずつ増え始めているように、ネット配信は僅かずつでも現代音楽の聴衆を増やすことに貢献していると思う。少なくとも私の実感では、以前の座席券だけの時代に比べて拙作を聴いてくれる人の数が増えたことは確かである。

また、普段はクラシック音楽しか聴かない知人にネット配信券を渡しておくと「現代音楽など不快な音楽を聴くのはイヤだ」と言っていた知人が、実際に聴いてみると「思っていたほど不快な音楽ではなかった」という感想をもらうことがある。ネット配信により幅広い聴衆層に聴かれることは「現代音楽は不快だ」という偏見が払拭されるきっかけをつくることにもなるのではないか。

ネット配信によって海外在住の知人にも拙作を聴いてもらえるようになった、というのも座席券だけの時代では考えられないことであり、ライヴ(当日)だけではなくアーカイヴ(録画)で一定期間見られるのも本当に有難いことである。

フォーラム・コンサートのネット配信は、コロナ禍が過ぎたこれからの時代も続けていくべきものだと思うし、継続を強く願いたいものである。

 

フォーラム・コンサート レポート⑤          河内琢夫
フォーラム・コンサート第2夜に参加して                       

今回私が発表しましたものは、ヴァイオリンとピアノのための《2つのクラフト・ワークス》という作品です。第1稿の作曲と初演は2018年に行われましたが、今回、ヴァイオリンのカデンツァ部分を改めて大幅に再考、修正し、改訂版の初演のはこびとなりました。
とは言え、改訂版の中には第1稿と変わらない部分も多々あるため、現代作品における「再演」の意味とその重要性をこの機会に考えさせられることとなりました。

・・・悲しいことに現代音楽作品の多くは「世界初演」と同時に「世界最終公演」になることが多いのは皆様ご承知の事実です。運よく、聴衆、演奏家両者の支持を得て再演されることはありますが再々演、再々々・・・演となる作品は非常に限られています。しかし私は初演と同じくらい、再演することが重要であることに今回気づかされました。

作品は一旦、作曲者の手を離れ、そしてある程度の時を経ると明らかに(作曲者の思惑とは別に、勝手に)成長するものなのです(!)。今回、そのことに気づき、その特異なフィーリング(言葉では、とてもうまく表現できません)に自分でも驚いています。

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン・・・ワーグナー、マーラーetc…の作品は名曲としてこれまで数えきれないほど世界中で「再演」されてきましたし、今もされています。
しかし、おそらく今現在演奏され、録音され賞賛されているそれらの曲の数々の名演奏(それこそカラヤンだったりバーンスタインだったり、あるいは朝比奈隆だったり上岡敏之だったり・・・の演奏)を当の作曲者自身が聴いたら「私の思い描いていたものと違う!」と驚愕し、気絶してしまうかもしれません。

作品は作り手の手を一旦離れると、後に改訂するにせよ、しないにせよ、独自の生命を持ち、赤子が幼児に、幼児が児童に、そして少年少女、青年、大人へ・・・と成長してゆくものなのです。
それが自然であり、作曲家は自ら生み出した子供(作品)の成長を暖かく見守ってゆくべきだと今回強く感じました。