『現音・秋の音楽展2015』のプログラム冊子P17のロクリアン正岡会員の曲目解説に編集ミスがありました。正しくは下記の赤字の通りです。作曲者並びにご迷惑をおかけした皆様にお詫びして訂正致します。
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ロクリアン正岡
念仏楽曲「時を貫く“南無阿弥陀仏”」
作曲2015 年/初演
Locrian MASAOKA
“Namu Amida Butsu that transcends
through time”
2015, premiere
高浜虚子に
「去年今年(こぞことし)貫く棒の 如きもの」
という有名な俳句がある。
私は、「時間が貫く」のではないと思う。
この世に生きる者にとって、時間は全現象共通の軌道のようなものだが、生の呪縛から解放されて望めば、時間は無限とか永遠があるからこそ生じるその影のようなものに過ぎない。
「時間が暦を貫いて行く様」と言えば表象しやすいが、そんな甘いものではない。
同様に、「音楽は時間芸術」と言われ、「一貫性のある音楽」という褒め言葉もあるが、これもまだまだ甘い。究極の音楽は、時空に先立つ阿弥陀仏と人間との一体性から直接に齎されるものである筈だ。
が、仏教の信者の方々が日々唱えておられる言語念仏「南無阿弥陀仏」が、このように音楽と統合されることは果たして可能か。いや、そもそも是か非か?はたまた、信者の方にとって、それはどうでもよいことか、あるいは切実な問題か?
なお、本会のウェブサイトに本題の引用俳句部分の徹底的分析を核とした、週刊誌仕立てでいささか狂気の匂いもする哲学的論考を掲げた。3 万字近い型破りなものだが、これほど“はた迷惑なほどに”音楽の仮面をはぎ取ってみせたものを私は知らない。人間が書いたものとはいえ、この世やご自分に退屈されている方々をも目覚めさせる勢いのこの文章、是非ご覧になられますよう!
あの、小保方晴子、中川俊郎の両天才も「まな板の上の鯉」のごとし。
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※訂正版はこちらです。