こんにちは! ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。2017年という年号にもようやく慣れてきました。今月の「事件簿」は、わたしがかねてから気になっている、音楽におけるジェンダー論について綴りたいと思います。
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近年、フェミニズムと呼ばれる女性の社会進出を推奨する動きが盛んです。わたしはこの考え自体には賛成ですが、これだけインターネットで書きものをしているにも関わらず特段大きな声を上げないのは、自分は社会全体の女性の問題を背負えるほど、この件について深く考えていないからです。
わたしの普段のツイートなどの内容から、フェミニストだと言われたらそれは否定しないけれど、女性が生きやすい社会にするために、とは思ってなくて、自分を女性という枠にはめて見られることがものすごく嫌だから、そこから自由になりたいという方向性だということは、ここに明記しておきたいと思う。
— はらだまほ (@real_sail) 2016年11月10日
深く考えていない、と書くと投げやりですね。わたしは「女性が生きやすくあるために」とは考えておらず、ただ「はらだまほが精神衛生よろしく収まれる環境を作る」という捉え方で、ときにフェミニズムの運動や思考を支持します。これは真剣に活動されている方から見たらかなり無責任ですよね。社会における自分の居心地の良い場所を探すという個人的な目的でしか考えていないために、自分がファミニストを名乗ることは、社会的・経済的・学術的にしっかりとジェンダーのことを考えている方に対して失礼だと思うのです。
ただ、性別を超えて自分を捉えるという考え方をできることすら、自分の世代だから、そして比較的リベラル志向の家庭に育ったからかな、と思うことはあります。たとえば自分が政略結婚の 1 ピースとして、親の事業の取引先に嫁がなければならないことが幼少期から決まっていたとしたら。たとえば小学校の段階からあまり学校に行けず、離れた町の井戸へ毎日水を汲みに行き、10 代のうちに母親になっていたとしたら。わたしは女という初期設定をまざまざと感じずにはいられなかったでしょう。
今でも覚えているのは、中学時代の社会科の授業のひとこま。「これまでの日本の総理大臣には、全員にひとつの共通点があるんです」という先生の問いかけに、何人か挑戦しますがなかなか正解が出ません。やがて「答えはですね…全員男性なんです」と先生が言うと、教室には「あぁ」「たしかに…」という声がこだましました。
「皆さんの世代から日本初の女性総理が誕生するかもしれませんね」と希望を持たせた先生は、今思えば良い先生だなぁと思います。またそれを受け、クラスの男子に「はらだ総理大臣になるんじゃね?」(注:当時学級委員長だった)と言われたのはさすがに超恐縮でしたが、そう思ってもらえたことは嬉しかったし、そのときの「女性をリーダーに立てることに抵抗感がない」教室の雰囲気は次世代として頼もしいものだったと思います。あぁ、わたしがおっかない委員長だったからという仮説は否定しないでおきますね。
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さて、本当に性別による差を感じていないならば、むしろその格差について“考える”という発想もなかったでしょうね。格差の是正を求める人は常に、差別を目の当たりにしてきた人です。
わたしはまだ格差を実感したことはありませんが、“差”については考えることがしばしばあります。
一音楽学生としてわたしにも理想の音楽と理想の演奏スタイルがあるものの、近年どうもそれは男性ヴァイオリニストのそれに近いのではないかと気づき始めました。つまり、自分をそこに近づけていくのは難しいのではないかという疑問も同時に発生したのです。
主観的かつ感覚的なデータですが、たとえは演奏スタイルで言えば、ヴァイオリニストの場合女の子のほうが反り越し気味な気がします。手の大きさや指の太さから楽器の持ち方がまったく違って見えるのも興味深いことです。
男女では体格差があるのだから、演奏スタイルの違いは仕方のないことではあれど、いやむしろ体に合わせた姿勢を取るべきながら、ときに自分の姿を鏡で見たときに、あまりに理想と離れていてがっかりすることがあります。それだから、学部時代の友人に「まほさんは弾き方が男っぽいよね」と言われたときは「しめた!」と思ったものです。わたしは女子にしては背があるものの、身長に対する手のサイズは小さめ。見た目から手が大きい人用の運指を勧められることが多く、それもまたわたしを悩ませる要素のひとつとなります。
思い返せばこのモンモンとした疑問の芽は中学時代には育ち始めていました。今よりもツンツンしていた頃です、毎日提出必須だった日記帳に「ベートーヴェンを女々しく弾く人は嫌いです」という意見をぶつけたことがあります。理科の先生にこの議題を問う自分もなんだかなと思いますが、担任の先生は「女性にしかできないことにキーがあるんでしょうね。」と返してくれました。しかしわたしはこの言葉の答え、自分の「女性らしさ」にある強みは未だ見つけられずにいます。
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音楽とジェンダー問題といえば、近年一部で女子音大生が「会いに行けるアイドル化」されていることにも疑問を感じます。たとえばそのキャラクターで売り出すほど、本人も納得かつ自覚して活動を行うことは良いと思います。演奏者本人がそれを願っているわけではないのに、まるで劇場型アイドルを追うようにコンサート会場に現れる人に、わたしは首をかしげてしまうのです。
会えば「イケメン系女子(面ではなくメンタルのことです)」と言われるわたしすら、Facebook上での肩書きは「音大に通う23歳女子」。たったそれだけで、知らない人からの友達申請をたくさん受けます。これはとても不思議な、そして2010年代ならではの現象です。わたしの場合Facebookは実際の知り合いのみのお付き合いで使っているので、そういった申請をいただくたび、心の中で「おそらくわたしには皆さまの求める『かわいげ』がないのでご期待には添えません、ごめんなさい」と思いながらお断りしています。
たまに、アイドル=偶像化された「音大生女子」を見る目を向けられた日には、言葉にし難い居心地の悪さにいたたまれなくなります。ただ、これものちに振り返れば「あの頃は若かった」と思うのかもしれません。若さの特権は今しか使えないのだから、と言われればそれも一理あると思いますし、心は揺れます。
補足しておくと、自分がいわゆるLGBTであるとは思いません。イケメン俳優に目をキラキラさせたりしているので(好きなドラマは『相棒』です)友人には「見かけによらず乙女な一面があるよね」と認識されています。自分に与えられた性別の初期設定が辛いというほどのこともありませんし、たぶんノーマルの類です。しかしながら、こうしたわけでときに「自分が男性だったらなぁ」または「女性だからこういう場面に遭遇するのかなぁ」と考えることがあるために、セクシャルマイノリティ問題は他人事には思えないのです。
音大には「小さい頃男の子になりたいと思っていた」という友人が、少なからずいました。性別の境なんて、もしかしたら誰もがその淵をのぞいたことがあるかもしれません。それは「癖(へき)」や「フェチ」として括られるものもあり、実にグレーゾーン。これを言ったら何事もそうだと言えますが、そもそもが同じ人間などおらず、人の性(さが)は固有のものです。性的少数者を括るからこそ、ノーマルの枠の中にも生きづらい人が出てきます。ノーマルとLGBTなんて区分すら、いつかなくなればいいのになぁと思います。
文・絵:原田真帆
栃木県出身。3歳からヴァイオリンを始める。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部器楽科卒業、同声会賞を受賞。第12回大阪国際音楽コンクール弦楽器部門Age-H第1位。第10回現代音楽演奏コンクール“競楽X”審査委員特別奨励賞。現代音楽にも意欲的に取り組み、様々な新曲初演を務める。オーケストラ・トリプティークのメンバー。これまでに萩原かおり、佐々木美子、山﨑貴子、小川有紀子、澤和樹、ジェラール・プーレ、小林美恵の各氏に師事。