遠山一行賛助会員を悼む
末吉保雄
日本現代音楽協会のたった一人の賛助会員遠山一行氏が逝去された(2014年12月10日。1922年生まれ、行年92才)。1967年の会員名簿には、氏とともに10人の賛助会員の名が記載されている。本協会の賛助会員数最多の時代で、この年以降、亡くなられて数を減じてものちの入会は無く今日に及んだ。会費納入の義務は負わず、まさに、会の趣旨、活動に賛同する証として名を連ねていただいた制度だったろう。小泉文夫、寺西春雄、富樫康、野村光一、平島正郎氏ほか、存命中は健筆を揮われた著名な方々で、日本の作曲活動に大きな期待を寄せてこられた(賛助会員制については後日総会でお話ししたい)。
しかし現在、おそらく当協会会員をはじめとする日本の多くの作曲家にとって、遠山一行氏の名が身近であるとすれば、氏が、日本近代音楽館の、その所蔵資料収集の、名実ともにリーダーであったことかも知れない。
現在の、明治学院大学図書館付属日本近代音楽館のほとんど大部分の収蔵資料は、2010年7月、「日本近代音楽財団「日本近代音楽館」から引き継いだものだ。現音の会員はその内容のおおよそをご存知だろう。資料を収めておられる元、現会員も少なくない。
この日本現代音楽館の出来を辿れば、財団法人遠山音楽財団の設立された1962年まで遡る。その付属図書室(1966年開設、69年付属図書館と改称)に始まった活動が、1970年から84年のあいだ遠山現代音楽研究所として発展したのち、1985年、その性格を、日本近代音楽資料センターと明確化し眞出発したものだ。日本関係のものを除く西洋音楽資料24,000点を0慶應義塾大学に寄贈(同大学三田情報センター内「遠山音楽文庫」開設)して、財団の名称も「近代日本音楽財団」と改め、以来前記2010年の継承まで、氏は、その活動を率いてこられた。
これらの「資料」については、いずれ稿をあらためて書きたいと思っている。いずれにせよ、多くの者から深甚の謝意を受けるに値する「文化功労」だった。
氏の、その他の無数の仕事、膨大な著作、日本音楽コンクールを初めとする数多の社会的活動を述べることは、私には身に余る。しかし、音楽人としての大先輩であり、1959年以来の知己とも申せる親交を許されたと自覚もするので、回想の数々は、生涯のどこかで機を得れば書きたいとは願っている。
ここでは、私に、長く、強く残る生前の氏の言葉を紹介して哀悼のしるしとしたい。
1958年、軽井沢第2回現代音楽祭のシンポジウムでの発言「我々ひとりひとりが、歴史的必然性といった論理に従って歩かねばならないということはない。音楽をするということは、自分の内面の世界にある音楽に、ある位置を与えることで レールの上を歩くことではない(同年10月号「音楽芸術」参照)」
この年、私は、同音楽祭の第1回コンールに入選して、この場に居た。(ちなみに、第1位受賞は武満徹氏)先立つ1955年、氏と平島正郎(1926-2009)氏の共訳によるルネ・レイボヴィッツの評論集({現代音楽への道 バッハからシェーンベルクまで}ダヴィッド社)が刊行されていて、私は、すでにそれを読了し、強い印象を受けていた。
「音楽は、けっきょくは人の心の中にしか無い」。よくそう言われた。
なお、後輩諸氏に、遠山一行著作集第1巻(新潮社)を読むことを願っている、と申し添えたい。